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tootake

長脛彦の逃亡

更新日:4月20日

第145話~長脛彦は、大物主


十三湖(じゅうさんこ)は、青森県津軽半島北西部にある汽水湖で、地元津軽地区では「十三潟(じゅうさんがた)」とも呼ばれています。十三は「トミ」と読めることから、長脛彦は、この付近に大和から移り住んだとされています。長脛彦の別名は登美毘古(トミ・ビコ)だからです。


「長脛彦は死んでおらず、兄の安日彦(アビヒコ)とともに津軽に渡り、津軽の土着民であった、阿蘇辺族、津保化族と併合して、荒吐族となった。」

東日流外三郡誌(つがる・そと・さんぐんし)にはこんなことが書かれています。

また曽我物語では安日彦(あびひこ)という兄弟がいるとされ、また中世の武将の安藤氏(後の子爵秋田家)が長髄彦の子孫であると自称していました。

奥州安部氏の祖は、安日彦とされており、一方、大和朝廷の阿部氏の祖は大彦です。(日本書紀)

ちなみに文献学的には、安日彦は、長髄彦の兄とする記録よりも、「安日長髄彦」という名で同一人物であるとする記録のほうが古く、後者が原形であると推測されています。

私は、孝元天皇は饒速日という考えですから、孝元天皇の第一皇子の大彦と饒速日の子であるウマシマジは兄弟です。奥州安部氏の祖は、安日彦とされているのはそれなりの根拠があるのです。


ところで、古事記では、建甕槌命(タケミカヅチ)は大物主神の後裔とされ、三輪氏の始祖・意富多々泥古命(オオタタネコ)の父とされています。崇神天皇の時、疫病が流行で人民が多く死に、天皇の夢枕に大物主大神が現れ「意富多々泥古(おおたたねこ)という人に自分を祭らせれば、祟りも収まり、国も平安になるであろう」と神託を述べた。天皇はその人物を捜し出し、意富多々泥古命に三輪山の神を祭らせ、伊迦賀色許男命(いかがしこをのみこと)に天(あめ)の八十(やそ)びらかを作らせて、天神地祇(あまつかみくにつかみ)を定め祭らせた。


大物主が、長脛彦だとすればどうでしょう。長脛彦は大和朝廷の設立の段階で、自分の妹である三炊屋姫(ミカシキヤ姫)の子のウマシマジに殺されてしまいます。崇神天皇の時の疫病が流行は、大和朝廷が真っ先に思ったのは、長脛彦の祟りではないでしょうか。そして

タケミカヅチがオオタタネコの父親であるというのも納得できます。


このプログでは、長脛彦は三毛入野はとしています。長脛彦は五瀬命!?

三毛入野は神武(創作された神武)の兄の一人です。三毛入野は周防(山口県)の周防国熊毛郡の地方豪族です。三毛入野もやはり鉱山の経営者だと思われます。家津美御子(けつみみこ)~熊野


いつも参考にさせてもらっている上垣内先生によると、出雲の熊野大社の祭紳は櫛御気野命(クシミケヌ)で和歌山の熊野の家都美御子(ケツミミコ)と同じ神だと思われます。神武の兄とされる三毛入野は熊野三山の家津美御子(”ケ”ツミミコ)、出雲の熊野の櫛御気野命(クシミ”ケ”ヌ)と同じ神(=同じ人物)と思われるのです。


長脛彦は、三輪の神として祭られ、熊野本宮でも神として祭られていたことになります。

なお熊野本宮の古代から中世にかけて、神職は饒速日の後裔で熊野国造の流れを汲む和田氏が世襲し、平安時代には式内社名神大社)に列せられています。

す。


    多氏と長脛彦


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。




生駒市白庭台の住宅地に神武天皇と戦った長髄彦(ながすねひこ)の本拠地があった場所とされる碑が建っています。この地は特に神武天皇と戦ったとされる場所で、富雄川付近には関連する場所が多数あります。


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