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ミマキ姫は、五十鈴姫~茨木市五十鈴

更新日:2023年10月7日

第68話


大彦の母は、内色許売命(ウツシコメ:ウツシコオの姉か妹)、父は孝元天皇(饒速日)

大国主の母は、刺国若比売(さしくにわかひめ)、父は大屋毘古神(饒速日)

カミヌナカワ(神渟名川耳尊:綏靖天皇)の母は、媛蹈鞴五十鈴媛(富登多多良伊須須岐姫)、父は神武(スサノオ)。大彦=大国主=綏靖天皇とする私の説では、一番障害となるのは、媛蹈鞴五十鈴媛(富登多多良伊須須岐姫:ホト・タタラ:イスケヨリヒメ→長いので以後;五十鈴姫とします)です。


三島の溝杭の娘である玉櫛媛(たまくしひめ)は勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)ともいいます。玉櫛という地名が茨木市(〒567-0895)にあるのでおそらく実在の人物でしょう。玉櫛姫は、御穂積姫だと思います。五十鈴も地名です。〒567-0000


玉櫛媛の夫は、三輪の神(大物主)とも事代主ともされています。大物主が饒速日だとすると、饒速日の子が、大国主で、大国主の子が事代主、事代主=三島の溝杭とすると、、、

とてもおかしなことになってしまいます。


五十鈴姫は、本当は誰の子だったかは、謎なのです。神武が実在の人物だったとしても、五十鈴姫の夫というのは無理があります。前に述べたように神武の妻はアタ姫で、アタは奈良県五條市東方のアタ(阿田)です。記紀で日向国の吾田村というのは嘘です。(後述予定)


大彦の子は、タケヌナカワ(武淳川別<--->綏靖はカミヌナカワ)、そして大彦の子とされる人物がもう人います。ミマキ姫御(御間城姫)です。

ミマキ姫は、ミマキ入彦の后です。ミマキ姫とはいかにも取って付けた名前です。


古事記では崇神天皇記で大彦の娘とされ、開化天皇記では御真木入日子(ミ・マキ・イリヒコ:御牧入彦)つまり崇神天皇の妹として紹介されています。孝元天皇記には開化天皇の兄として大彦が紹介され、その御子として建沼河別が記されるものの御真津比売の名はありません。他方、日本書紀と先代旧事本紀では垂仁天皇紀で初めて大彦の女と書かれています。しかし、両書ともに大彦の子供達の記述は無く、したがって御間城姫の紹介はありません。


五十鈴姫は、ミマキ姫と考えると一番すっきりします。

ウツシコメが、出雲(大国主=大彦)の暗殺を図ったことを隠すために、歴史を操作しようしたため、訳の分からないことになってしまったのです。三輪伝説丹塗矢伝説は、五十鈴姫の父親を隠すために創作されたのでしょう。


ヤマトは出雲と大きく和したという意味で大和という漢字を当てたということです。五十姫(ミマキ姫)が、大彦の娘ということは、大彦=高倉下の娘、すなわち饒速日の孫です。

またホト(女陰)ということから、ホトを露わにして呪術を行っていたとおもわれ、例の天のウズメもそうですが、和泉式部日記にも、女性の祈祷師がホトを露わにしていたので見ていて恥ずかしくなったと書かれています。

五十鈴姫は魏志倭人伝のいうところのトヨ(壱与)であった可能性もあります。


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ホトと女性の陰部のことですが、「ふいご」のことと一般的には理解されているようです。たたらにはふいごがつきものなので、東奈良遺跡との関連がよく分かります。ホトでは流石に体裁が悪いと思ったのかホトを姫に変えてヒメ・タタライスケヨリ姫と呼ぶ人が多いようです。



※これまでの記事はこちらです。このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。

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