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饒速日が死んだ!~ウツシコオの陰謀

更新日:2023年10月13日

第66話


孝元天皇は、西暦240年頃に崩御されたと推定されています。私の考えでは孝元天皇は饒速日(ニギハヤヒ)です。島根県太田市にあるウマシマジを祀る物部神社の社伝によりますと、「神武天皇御東遷のとき、(饒速日の子ウマシマジは)忠誠を尽くされましたので天皇より神剣・霊剣を賜りました。また、神武天皇御即位のとき、御祭神は五十串を樹て、布都霊剣・十種神宝を奉斎して天皇のために鎮魂宝寿を祈願されました。かくて辛酉年(カノトトリの年)正月朔日、天皇即位し給う。」とあります。この天皇は開化天皇のことと思われます。ということはその前年に孝元天皇が亡くなったことになります。辛酉年はBC241年です。


先代旧事本紀では、饒速日が死んだとき、高皇産霊尊は哀れに思い、七日七夜哀泣したと書かれています。高皇産霊尊(タカミムスビ)はウツシコオです。ウツシコオは孝元天皇の宰相です。孝元天皇葬儀を取り行うのはウツシコオの仕事です。


ウツシコオが哀泣したかどうかはともかく、このチャンスを生かすべき画策します。孝元天皇の後を継ぐのは、息子の大彦である筈です。つい最近タケハニヤスの乱を見事な手腕で収めた実績もあります。しかし、大彦は天皇にはなれませんでした。


すでにこのプログですでに書いたことですが、大彦(大国主)は暗殺されかかったのです。

古事記にひどい兄弟たちに二度も殺されて生き返り、黄泉の国まで逃亡したことも書いてあります。大国主の母が「殺された息子を見て嘆き悲しみ、𧏛貝比売・蛤貝比売と共に彼を蘇生させた。」とあります。大国主は一命をとりとめたものの、衰弱してしまったのです。次の天皇に即位することはかないません。


大彦の子供の名前については、記紀は一切書いていません。これも不思議なことです。

そして大国主の子は事代主です。

本来ならば事代主が次期天皇になるはずでした。しかし、ウツシコオは、姉のウツシコメの子:開化(オシホホミミ)を推薦し、事代主に圧力をかけます。これが国譲りの物語です。


さらにイカガシコメ(伊香色謎命)を開化天皇に嫁がせます。イカガシコメは亡くなった孝元天皇の后でもありました。イカガシコメは、単なる物部の姫ではなく、物部・尾張連合の象徴であったとか、イカガシコメこそは卑弥呼であったとか様々な憶測のある姫です。


ウツシコオはなぜか開化天皇に満足していなかったようです。

古事記には「葦原中国は私(天照大御)の子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみ)が治めるべき国である」と命に天降りを命じたが、命は天の浮橋から下界を覗き、「葦原中国は大変騒がしく、手に負えない」と高天原の天照大御神に報告した。

正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(オシホホミミ)は開化天皇です。開化天皇自身は即位したくなかったのかもしれません。”葦原中国は大変騒がしく”とあるのは、国譲りの件を開化天皇が気にしていた、つまり卑怯な手で即位したのは気が重いといったようなことではないでしょうか。


ウツシコオは、イカガシコメの生んだ子供、すなわちミ・マキ入彦イニエを安定した天皇にすることに執念をもやします。後々変な噂が立たないように、饒速日、大国主、事代主などを出雲とし歴史の改ざんに取り掛かるのです。


関連項目:五十猛は饒速日

    :孝元天皇は五十猛


※これまでの記事はこちらです。このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。

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