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大彦

更新日:5月7日

第80話


大彦=カミヌナカワ=大国主をもう一度検証します。下線は重複する人物


〇カミヌナカワ(綏靖天皇)

父:神武天皇(実在せず)

母:媛蹈鞴五十鈴媛命(かなり疑わしい)

妻:五十鈴依媛命(かなり疑わしい)

 :河俣毘売(かままたびめ、かわばたびめ)

子:安寧天皇(妻はアクト姫:大阪府高槻市~ミマキ国に住んでいたと思われます)

事績:異母兄の手研耳命(タギシミミ)を誅殺


〇大彦

父:孝元天皇(饒速日)

母:ウツシコメ(疑わしい)→下記の<追記>参照

弟:少彦男心命(すくなひこをこころのみこと:少名彦?)

妻:記載なし、三穂津姫=玉櫛姫とすれば、大彦の妻(下記参照)

子:ミマキ姫(御牧姫=五十鈴姫)、建沼河別命(タケヌナカワ

  ~五十鈴姫は、玉櫛姫の子

事績:異母兄のタケハニヤスを誅殺。

  :四道将軍として高志道


〇大国主

父:天之冬衣神(饒速日)、素戔鳴尊

母:刺国若比売、奇稲田姫(架空の創作人物)

妻:多紀理毘売命(田心姫命)~玉櫛姫と思われる。

子: 事代主神(三島の溝杭)、建御名方神(物部守屋) 南方刀美神(タケミナカタ)

事績:カミムスヒ(孝元天皇)の指示で、少名毘古那神(すくなひこ)と連携して国土経営を行って著しい功績を残す。

  :高志国に出かけて沼河比売(ヌナカワ)の家の外から求婚の歌を詠んだ。

大穴持命(大国主神)と奴奈宣波比売命(奴奈川姫命ヌナカワ)の間に生まれた娘が御穂須須美命とする記述が出雲国風土記にあります。


※高皇産霊尊(ウツシコオ)は大物主神(大国主)に「もし国神を娶れば、お前には謀反の心があると思ってしまう。だから、私の娘の三穂津姫(みほつひめ)をお前の妻とさせたい。八十万の神々を率いて、永遠に皇孫(すめみま)を守護し奉れ」と勅して、下界に帰り降らせた。(日本書紀 第九段一書)


三穂津姫(みほつひめ)は、多紀理毘売命(田心姫命)で玉櫛姫であると考えられます。

玉櫛姫は、五十鈴姫(ミマキ姫)の母です。よって大彦の妻は、三穂津姫であることが考えられ、大彦は大国主であることが、わかります。


大国主の名前もいくつかあります。大穴牟遅神(オオアナムチ)は、大穴=鉱山の持ち主で、タケハニヤスを討ってヤマト(邪馬台国)を平定した時の名前が大国主神。軍人としての名が八千矛神です。名前が多いということはそれだけ活躍したということです。

神武天皇は、イワレヒコ、サノぐらいしか別名がないのも架空の人物である証拠です。


〇高倉下(タカクラジ)も饒速日の子であることから、大彦と思われます。

 事績:新潟県の彌彦神社の社伝に、勅命を受け越国を平定、開拓に従事したと伝えられています。彌彦神社の祭神は北陸の国造家高橋氏祖神の大彦命ではないかと思われています。


<追記>

高津姫もミホツ姫と同様に大国主神の妻とされていますが間違いです。大彦(孝元天皇長子)の母は、古事記では神屋楯比売命、先代旧事本紀では高津比売命とあります。大国主は多岐都比古命とも呼ばれています。


交野市北部に倉治(くらじ〒576-0051)という地名があります。母親の高津姫(コウズ姫)の住んでいた郡津(コウズ)のすぐそばです。倉治と言えば、高倉下(高は尊称)即ち、大彦=大国主の別名です。大彦(大国主)はここに住んでいたと思われます。


阿部氏は孝元天皇の皇子大彦命を祖先とする皇別氏族です。JRの岸部駅付近が阿部氏の発祥の地です。大彦の生誕地吹田市の岸辺だと思われます。阿部(安部)氏~岸辺(吹田市)


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Wikipediaでは下照姫(高照姫)の兄弟姉妹として同母:阿遅鉏高日子根神(アジスキタカヒコネ)、異母:事代主神、建沼河男命とあります。古事記では下照姫は大国主神(顕国玉)と多紀理毘売命の娘で、阿遅鉏高日子根神の妹としており、先代旧事本紀・地神本紀でも古事記でも同様に大己貴神(大国主)と田心姫命の娘で、味耜高彦根神(アジスキタカヒコネ)の同母妹としています。この建沼河男命(日本書紀)は武渟川別(古事記)とで事代主=阿遅鉏高日子根神(アジスキタカヒコネ)=武渟川別ということになります。シタテルヒメ - Wikipedia

武渟川別が下照姫の兄弟ということは大国主の子ですが、建沼河男命(日本書紀)=武渟川別(古事記)は大彦の子です。この事によっても大国主=大彦ということがいえます。


大彦の子の名前が、タケヌナカワ(武淳名川別)と記紀に書いてあるので、大彦のカミヌナカワとの対比で 大彦=大国主=カミヌナカワ=綏靖天皇であることは間違いないでしょう。古事記によると、大国主はコシの沼河比売(ヌナカワ)を妻にしようとはるばる訪ねて行き、歌を詠み交わして次の日に結ばれたといいます。


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天香語山命は大彦:邪馬台国前史~熊野と金

元々は、天香久山は熊野にある山で、この鉱山の持ち主が素戔嗚だったのです。そして素戔嗚の子の大歳と孫の高倉下がそこの管理を任されていたのではないでしょうか。高倉下(大国主)の別名はオオナムチで(大穴持ち=鉱山の管理者)という意味です。記紀版Q資料には天香具山のことが書かれていたのですが、五百年後の記紀の著者たちにはその場所が分からなかったため奈良盆地の山の一つを選んで聖なる山である天香具山としたのです。そしてそれが大彦と関係があることを悟られないように大彦を一字かえて天香語山命としたのでしょう。

この時代(BC200年代前半)は大和(邪馬台国)は奈良盆地には進出していないないので、奈良県の天香久山はただの山だった筈です。


<関連項目>


※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。 

※これまでの記事はこちらです。



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