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  • tootake

椿井大塚山古墳

更新日:4 日前

第51話


2023.9.9調べなおした結果、椿井大塚山古墳は鴨王の墓であると訂正します。しかし下記の内容そのもについは変更するとこはありません。


上垣内先生が孝元天皇の墓とされているその古墳は、木津川の右岸にあります。

JR奈良線によってその中央部分を大きく切断された椿井大塚山古墳は、国内でも有数の規模をもっています。しかもあの箸墓よりも古いのです。そしてその副葬品も、驚くべきものでした。


当時最多の三角縁神獣鏡32面が出土し、それ以外には三角縁神獣鏡より少し古い内行花文鏡2面、方格規矩鏡1面、画文帯神獣鏡1面が出土し、総計36面以上の鏡と武具が出土しました。


そしてさらに武器・武具では、鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、銅鏃17本、鉄製甲冑1領が、工具・農具では、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上が、漁具では、鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本が出土しています。このほか、鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品がでています。縄文時代からの漁具である銛、ヤス、釣針が揃って出土しています。古墳の近くに舟戸という地名があり、以上のことから当古墳の被葬者は船舶の管理者であり、津(港)の管掌者ではなかったかと推測されています。


さて、この被葬者は誰でしょう? ヒントは4つです。

・船舶の管理者であり、津(港)の管掌者

・天皇クラスの人物

・鏡造りと関連がある人物

・スサノオと関係のある人。←私は、孝霊天皇はスサノオと思っているからです。孝霊の子が孝元です。


私には、思い当たる人がいます。イツツ彦(五十彦)、イソタケル(五十猛)、イタテ(伊太底)などと呼ばれている人物です。


日本書紀では、五十猛は素戔嗚(スサノオ)の子でスサノオが五十猛をつれて新羅に天下ったと書かれています。これにより、スサノオや五十猛が新羅から来た人物とする人がいますが、「来た」のではなく、「行った」のですから、スサノオも五十猛も日本人です。

有名なヤマタノオロチの話の後に五十猛が日本に木を植えて青山にしたと書かれています。


・伊太祁曽神社(和歌山県和歌山市伊太祈曽)では、林業の神として信仰されています。紀伊は古来林業の盛んな地であったので、それらの人々が信仰していた神と考えられます。

・石見国五十猛村(現在の島根県大田市五十猛町)にも五十猛神社があり、埴(ハニ)の船を作り海を渡ったことから、造船、航海安全、大漁の神として信仰され、商売繁盛、開運招福、悪疫退散、厄除け等の神徳もあります。


伊太祁曽神社あるいは、五十猛神社は和歌山と島根、鳥取にいくつかあり、スサノオ(孝霊天皇)の辿ったと思われる地域と重なります。


イタテ神を祀る紀臣(キノオミ)一族は、津島半島の水軍として活躍しています。

五十猛が紀ノ國に木を植えたのは、船を作るためでした。宗像三女神が、九州の地であるのに三島の女神(スサノオの子)が祀られている理由も分かります。


鳥取県に日野郡があり和歌山の伊太祁曽神社も元は日野にあったのです。日野川は、氷川でスサノオと深い関連があります。


五十猛の上陸伝承のある石見国五十猛村(現在の島根県大田市五十猛町)で前に述べたように太田の地名からも、太田「呉の勝」関連の地です。和歌山の伊太祁曽神社に五十猛を祀った人々は、鏡造りの技術者であったと考えられます。


これらのことから、上垣内先生のいう孝元天皇の墓は五十猛(イタテ)であると思われます。


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伊太祁曽神社の神紋は「太」です。 「太」一文字で「太一」この意味は、日本の最高の神という意味です。現在の伊勢神宮でも見られるそうです。


孝元天皇は、カミムスヒと以前書きました。「太」はヤマト(邪馬台国)で最高の神だったのです。ウツシコオのタカミムスビにとって代わられるまでは!



2023.9.9

その後、調べなおした結果、椿井大塚山古墳は鴨王の墓(ウツシコオ=難升米)であると訂正します。




※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。



<邪馬台国の新常識>


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