top of page
  • tootake

八咫烏の真実~ウツシコオ陰謀の始まり

更新日:3月5日

第94話


事代主は、三島の溝杭、八咫烏とされています。そして「神武天皇を先導してヤマトの葛城山に宿り、、」とある賀茂建角身命は鴨王で八咫烏のことと思われます。鴨王は事代主の孫の天日方奇日方命で事代主の孫とされています。しかし賀茂建角身命は建御名方神のことで、大国主(大彦)の子すなわち事代主ですから鴨王=事代主となり、微妙に矛盾しています。前回で述べた、弟磯城(鴨王)は、八咫烏(鴨王??)に説得(調略)されてとある矛盾と合わせて説明します。


これは、実在しない神武天皇を創作する際に神武の后を実在する三島の溝杭の娘の五十鈴姫(ホトタタライスケ)としてしまった為です。さらに八咫烏とは人の名前ではなく役職の名前だと思われます。伝令、軍監(戦奉行)とかそういった役職の名前ではないのでしょうか。遊撃隊と考えても良いかもしれません。ウズヒコ(鴨王)も事代主も神武=饒速日の本隊とは別の遊戯隊だったのです。


兄磯城との戦いで、椎根津彦(ウズヒコ:鴨王)も、大彦(大国主)の子である事代主も八咫烏と参戦していたのです。古事記、日本書記が書かれたのはこの戦いからおよそ500年も後です。混乱が生じても無理はありません。


事代主は、大彦(大国主)の子で賀茂建角身命です。五十鈴姫の母とされる玉櫛姫(ミホツ姫)の父ではありません。鴨王=ウツシコオの娘がミホツ姫です。


高皇産霊尊(ウツシコオ)は大物主神(大国主:大彦)に「もし国神を娶れば、お前には謀反の心があると思ってしまう。だから、私の娘の三穂津姫(みほつひめ)をお前の妻とさせたい。八十万の神々を率いて、永遠に皇孫(すめみま)を守護し奉れ」と勅して、下界に帰り降らせた。(日本書紀 第九段一書)


そして鴨王は、木の国の名草の出身の水運業者ウズヒコ(黒速)です。鴨王は孝元天皇(饒速日)からも信頼されヤマト(邪馬台国)の宰相となりました。そして山代(京都府)にやってきて、山代川、木津川、保津川、桂川の水運を司る三島の溝杭と呼ばれるようになったというのが本当だと思われます。そして内里に拠点をおいたことでウツシコオ(内色許男命)と呼ばれるようになりました。


ところで日本書紀では、綏靖天皇の后は事代主の娘(五十鈴姫)としていますが。古事記では妃はシキ縣主の娘の河俣毘売です。兄磯城との戦いで手柄を立てた鴨王(ウツシコオ)磯城(師木)に領地を貰い師木縣にもなりました。ということは河俣毘売は、ウツシコオの娘または縁者だと思われます。


以後、ウツシコオは続々とを大和朝廷に縁者の娘を大和朝廷(邪馬台国)に送り込みます。

・綏靖天皇:河俣毘売~師木県主波延(安寧天皇皇后、阿久斗比売の父)の妹。

・安寧天皇:阿久斗比売(アクト姫:記)、渟名底仲媛命(紀)~鴨王の娘(日本書紀)

・懿徳天皇:天豊津媛命(紀)賦登麻和訶比売命(記)~師木県主の祖

・開化天皇:イカガシコメ~ウツシコオの娘

・崇神天皇:遠津年魚目々微比売(トオツアユメマクハシヒメ)古事記

      木の国の荒河戸畔(アラカワトベ)の娘

      五十鈴姫についてはこちらをご覧ください。


次々と后を送り込む手法は、後の藤原氏でおなじみですが、ウツシコオはそれよりもはるか以前にやっていたのです。ウツシコオの別名は木開の足尼(キサキのスクネ)です。要するに天皇に后を送り込むのが仕事のようになっていたのでしょう。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

綏靖(=大彦:大国主)、安寧、懿徳は同時代の近畿各地の豪族であったと思われます。

ウツシコオは自分の娘(縁者)をそれらの豪族を一つまとめ上げ、大和朝廷(邪馬台国)として統一したのではないでしょうか。




※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。 

※これまでの記事はこちらです。



閲覧数:95回1件のコメント

最新記事

すべて表示
bottom of page