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大彦の北陸道遠征

更新日:3月5日

第91話~三角縁神獣鏡は通貨


孝元天皇の長男の大彦は、崇神天皇の命令により、四道将軍として北陸道へと派遣されました。実際は崇神天皇(ミ・マキ・イリヒコ:御牧入彦)は、即位していなかったと思われるますので、ウツシコオの提案で行ったのかもしれません。また、大彦の子の武渟川別(タケヌナカワ)も同時期に東海道に派遣されています。


日本書紀では、大彦と武渟川別が出会った場所が会津としています。しかし、いつも参考させていただいている上垣内憲一先生は、会津ではなく、二人が出会ったのは、岐阜県神岡町にある大津神社だと指摘されておられます。大津神社は、大彦と武渟川別の二人を祀っています。で、この神岡では鉛が産出するのです。


この時期、日本では三角縁神獣鏡が盛んに作られています。三角縁神獣鏡は当時の通貨と考えられます。大和政権から遠い地方政権の首長たちから、錫や鉛などの貴重な鉱物資源の代金として三角縁神獣鏡を渡し、その首長たちと同盟した証しとして銅鐸をレガリアとして与えていたのではないでしょうか。


レガリアとは王権を象徴し、それを持つことによって正統な王、君主であると認めさせる象徴となる物です。また、王の所有する特権(貨幣鋳造権、採掘権など)を表すものです。


考古学者の設楽博己は、ヤマト周辺の諸集団は独占的にネットワークを支配していたのではなく、互恵的な社会システムが機能していたと述べておられます。(『考古学による日本歴史9』白石太一郎ほか編/雄山閣出版)。また考古学者の寺前直人は、ヤマト周辺では青銅器も入手可能だったのに、あえて二上山産サヌカイトの石製短剣を集落の人びとが所持し、強い権力者を排除していた様子が見てとれ、銅鐸に関して、前段階の社会秩序でもあった平等志向を維持することを目的に、この地域の人びとは青銅製武器を非実用品に変質させ、銅鈴に伝統的な文様を与えて、大型化をはかったと推定できるとされています(『文明に抗した弥生の人びと』吉川弘文館)。


つまり、大彦と武渟川別の北陸道へと派遣は、軍事侵攻などではなく平和的な商取引だったと思います。ちなみに武渟川別は事代主の本当の姿です。大彦は大国主で、大国主の子は事代主だからです。大国様とエビス様(えべっさん)のコンビです。


                      {参考文献}「謎の四世紀」上垣内憲一


※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。 

※これまでの記事はこちらです。



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