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五十猛の九州征圧

更新日:3月5日

第99話


第89話(神武西征)で、饒速日(五十猛)は、三島御牧から九州へ西征したと書きました。今回はその検証です。


物部氏は、近畿から九州(筑紫)を制圧していったのです。これは九州に銅鐸があることの説明にもなります。しかし五十猛(大和朝廷)は、武器を持って争うのではなく、その土地の首長たちと同盟しその証しとして銅鐸をレガリアとして与えていたのと思われます。

レガリアとは王権を象徴し、それを持つことによって正統な王、君主であると認めさせる象徴となる物です。また、王の所有する特権(貨幣鋳造権、採掘権など)を表すものです。


五十猛の子孫とされる辛嶋氏は当初は香春岳山麓に住み、その後、大貞薦神社(現在の中津市)で神官もしくは巫女を務めていたとされています。大神比義命とともに宇佐神宮の前身の社を建立しました。また、薦神社(こもじんじゃ)は、大分県中津市に所在する八幡宮で、別名大貞八幡宮(おおさだはちまんぐう)とも称されています。全国八幡宮の総本宮である宇佐神宮の祖宮といわれる古社です。


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印南神吉氏のプログ(https://enkieden.exblog.jp/21950655)には九州各地の五十猛と関連のある神社が掲載されています。印南神吉氏の許可を得て大幅に引用させていただきます。


福岡市西区の白木神社、糸島市王丸の白木神社の祭神は五十猛命(いそたけるのみこと)。


佐賀県杵島郡白石町辺田の稲佐山中腹に稲佐神社が鎮座、五十猛神・大屋津姫ほかを祀る。 佐賀県杵島郡の「杵島、きしま」の地名は五十猛(木の神)に由来する「木島」です。


妻山神社(稲佐神社の北3km、佐賀県杵島郡白石町馬洗:もうらい)に「木の神」の抓津姫(つまつひめ)と兄の抓津彦命(つまつひこ、五十猛命)が祀られています。神社の西に杵島山(345m)と勇猛山(いみょうやま、259m)があります。杵島山は五十猛と妹の大屋津姫、抓津姫が木の種を蒔いたので名付けられ、勇猛山は五十猛のことです。

 

肥前国基肄郡(きいぐん、現・佐賀県三養基郡)の基肄も紀伊(木)でしょう。三養基郡基山町の荒穂神社(五十猛命)が元は基山山頂に鎮座していたので基山を神体山としています。


五十猛の統治地域は北部九州の甕棺墓の出土地域に重なっています。甕棺墓は江南の海人族(倭人)の墓です。イソタケルはイソ(磯)のタケル(武)と解釈すれば海人族の名になります。綿津見豊玉彦の孫に日子波限建鵜草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえず)がいますが、「なぎさたけ」と「いそたける」は同じ意味です。五十猛の紀伊国統治地域は名草(なぐさ)郡です。名草の由来について紀伊続風土記に「ある説では渚の意味なり」と記されています。


 安曇氏の祖と云われる磯武良(いそのたける、いそたけら、安曇磯良)も五十猛と発音が同じです。       

                   引用ここまで

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名草が「渚」というのには、納得しました。私は、五十猛は饒速日で孝元天皇と思っています。そして孝元天皇の宮は、枚方市都ヶ丘にあったと思っています。枚方は淀川から船から降りるとそこは、渚(なぎさ)です。そこから急な崖になっており、坂を上がったところが禁野です。禁野の奥が、中宮、山戸町(ヤマト)です。中宮には、孝元天皇の后(中宮;ちゅうぐう)が住んでいたと思います。孝元天皇后はウツシコオのウツシコメ(卑弥呼)です。卑弥呼も名草で生まれました。


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九州にも饒速日を祀る神社は、いくつかありました。まだ詳しい検証はしてません。

  • 長崎大神宮

  • 天照神社 - 福岡県宮若市

  • 早日渡神社 - 宮崎県延岡市

  • 諸塚神社 - 宮崎県東臼杵郡

  • 細神社 - 宮崎県児湯郡

  • 伊多神社 - 鹿児島県串木野市



※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。 

※これまでの記事はこちらです。



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