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狗奴國は、出雲?  実は、、、

更新日:6 日前

第50話


倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼ともとより和せず、倭の載斯・烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。


卑弥呼を操っているのは、ウツシコオ(内色許男命)(難升米)です。魏に自ら乗り込んだこともあるくらいですから、強敵の狗奴国に攻め込むにあたり、魏に相談したのでしょう。

正始6年(245年)、難升米に黄幢(黄色い旗さし)を仮授した(帯方郡に保管された)。

正始8年(247年)に邪馬台国と狗奴国の和平を仲介するために帯方郡の塞曹掾史張政が倭国に渡り、その際に難升米に黄幢と詔書を手渡しています。


狗奴國は、出雲であるとする研究者は、何人かおられます。私の言う出雲は地名ではありません。ヤマトに敵対する国を出雲としているのです。島根県ではありません。三島も出雲です。当時、大国主、スクナ彦(=事代主)は、おそらく三輪山麓の沼鉄鉱あたりにいたはずです。後述) その後、検討した結果、饒速日一族が出雲です。


素不和 ~もとより不仲とは、結構近くにいて頻繁に顔を突き合わせるような関係だったことが伺われます。大和(邪馬台国)を手中にしたいウツシコオ(思金)は、出雲の大国主と河内にいる饒速日が軍団が、目の上のタンコブでした。


この時期(245年)に、孝元天皇(饒速日)が死にます。このチャンスをとらえ、出雲に使者をおくります。すでに三島Vs御牧ですでに書きました

出雲を降伏させた、ウツシコオは、ウマシマジに命じ、河内の長脛彦を攻めさせます。このこともウマシマジの憂鬱で書きました内色許男命(ウツシコオ)最後の陰謀 ~長脛彦の最後 (hidemaru3375.com)


男王:卑弥弓呼についても少し触れました。卑弥弓呼は、饒速日でしょう。

官を狗古智卑狗(一般的には「くこちひこ、ここちひこ」と読むが「くくちひこ」(菊池彦)「かわちひこ」(河内彦)とする説があります。)

河内彦とするなら、河内平野ににらみをきかしている長脛彦しかいません。


この戦いは、カモ族(物流の三島)と物部(軍事、祭事)との対決であり、ウツシコオの大和(邪馬台国)の総仕上げであったのです。

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狗奴はクニと読み、まさしく国の意味です。クニ=国はもちろんヤマト自体のことです。


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卑弥呼=ウツシコメであるなら、孝元天皇=饒速日、つまり饒速日(ニギハヤヒ)の后は

ウツシコメです。卑弥呼が邪馬台国(物部)のトップだったのです。


卑弥呼と狗古智卑狗(長脛彦)があまり仲が良くなかったことも良く分かります。

卑弥呼は饒速日の本来の后です。長脛彦が妹(三炊屋媛 :ミカシキヒメ)を饒速日に嫁がせたことを快く思うはずがないからです。



<邪馬台国の新常識>



※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。




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