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地名から読み解く邪馬台国


高倉とんど焼き~大阪府寝屋川市
第870話 大阪府寝屋川市に高倉という地区があります。 高倉とは、記紀に登場する高倉下(タカクラジ)のことです。 高倉下の別名は、天香語山命です。天香語山命は尾張氏の祖とされています。神武紀では、タカクラジは高倉下または高倉と記されています。すなわち高倉と書いてもタカタラジと読ませています。 高倉下の別名は、天香語山命です。天香語山命は尾張氏の祖とされています。台与も尾張氏の祖と思われます。~第370話: とよ(乎止与命・台与・臺與) 寝屋川市は枚方・交野市のとなりの市で交野市には、倉治(クラジ)という地名があり、このブログでは、高倉下=台与の邸宅があった所としています。~ 第430話: 倭(やまと)は高槻市、葛城は交野市 この寝屋川市の高倉には、「高倉とんど焼き」という伝統行事があります。 「高倉とんど焼き」は火祭りで、正月飾りを焼いて五穀豊穣・無病息災を祈る行事です。 正月飾りやしめ縄を焼いて、歳神様を空へ送り、五穀豊穣・無病息災を祈願するものです。 正月に各家庭に迎えられる歳神は、祖霊や農耕神の性格を持ち、その年の豊穣と家族の健康を司る
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観音正寺と人魚伝説
第869話 観音正寺は、滋賀県近江八幡市石寺にあります。西国三十三番第32番札所です。琵琶湖の東岸、繖山(きぬがさやま)の山頂南側にあります。信長の安土城の近くです。 観音正寺は、聖徳太子*によって開創されたとされています。 天と地の中間にある寺として、「天空の寺」と呼ばれています。 *聖徳太子は台与です。 ~第540話: 広隆寺と聖徳太子立像 推古天皇の御代、近江国を遍歴していた聖徳太子は湖水から浮かび出てきた人魚と出会います。 人魚は「私は前世漁師であり、殺生を業としていたため、このような姿になりました。 繖山にお寺を建て、どうか私を成仏させてください」と懇願しました。 聖徳太子はその願いを聞き入れ、自ら千手観音の像を刻み、堂塔を建立したとされています。 今回も; 狩猟者改心のモチーフ が用いられています。西国三十三番札所に共通するモチーフです。~ 第856話: 行願寺と狩人 このモチーフ は狩猟から稲作への スサノオ(津田の王 ) = ウツシコオ(内色許男命) ・台与の邪馬台国の国家方針です。 今回は、猟師でなく人魚が登場します。人魚は不老
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松尾寺と彌伽冝神社・阿良須神社
第868話 #彌伽冝神社 #阿良須神社 青葉山松尾寺は、京都府舞鶴市松尾にあります。 西国三十三所第29番札所です。 舞鶴市と福井県大飯郡高浜町との境にある青葉山の南山の中に位置しています。青葉山は、福井県から見れば、東西に並び立つ双峰が一つに重なり、その秀麗な様は「若狭富士」と呼称されています。 寺伝によれば、唐から渡来した威光上人が慶雲年間(704年 - 708年)に双耳峰の青葉山を見て唐の霊験ある馬耳山を起想して登山し、そこで大樹の下に馬頭観音を感得すると、和銅元年(708年)にこの地に草庵を結んで馬頭観音像を安置したといいます。これが松尾寺の始まりであるとされています。本尊の馬頭観世音は、三十三霊場中唯一の観音像であり、農耕の守り仏として、或いは牛馬畜産、車馬交通 、更には競馬に因む信仰を広く集めています。 この松尾寺がある舞鶴には、興味深い神社がいくつもあります。 ・彌伽冝神社(みかげ神社:大森神社) 京都府舞鶴市小倉 この神社は 舞鶴ではめずらしくも金属の神社と公認されている神社です。 社伝によれば、鉄の諸道具を作り始められた金工鍛
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成相寺:文武天皇は台与
第867話 成相寺(なりあいじ)は、京都府宮津市にあります。境内から日本三景天橋立を眼下に望むことが出来ます。慶雲元年(704)に文武天皇の勅願寺として真応上人が創建したと伝えられ、本尊は身代わり観音、美人観音として名高い聖観世音菩薩です。 身代わり観音の伝説は次のようなものです。 一人の僧が雪深い山の草庵に篭って修業中、深雪の為、里人の来住もなく食糧も絶え何一つ食べる物もなくなり、餓死寸前となりました。死を予感した僧は「今日一日生きる食物をお恵み下さい」と本尊に祈りました。すると夢ともうつつとも判らぬ中で堂の外に傷ついた鹿が倒れているのに気付きました。僧として肉食の禁戒を破る事に思い悩んだが命に変えられず、決心して鹿の腿をそいで鍋に入れて煮て食べました。やがて雪も消え、里人達が登って来て堂内を見ると、本尊の腿が切り取られ鍋の中に木屑が散っていました。 それを知らされた僧は観音様が身代リとなって助けてくれた事を悟り、木屑を拾って腿につけると元の通りになりました。此れよりこの寺を願う事成り合う寺、成合(相)寺と名付けました。 つまり、今回も鹿; 狩
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法華山一乗寺と法道仙人
第866話 一乗寺(いちじょうじ)は、兵庫県加西市坂本町にあります。西国三十三所第26番の札所です。国宝の三重塔は平安時代後期を代表する和様建築の塔であり、日本では屈指の古塔です。境内は春は桜、秋は紅葉の名所として知られています。 当寺を開いたとされるの前回: 播州清水寺:法道仙人 で登場した法道仙人です。元亨釈書等の記述によれば、法道は天竺に住んでいたが、紫の雲に乗って隋もしくは唐、百済を経て日本へ飛来し、播磨国賀茂郡(兵庫県加西市)に八葉蓮華(8枚の花弁を持つハスの花)の形をした霊山を見出してそこへ降り立つと、法華経の霊山という意味で「法華山」と号したといいます。法道は神通力で鉢を飛ばし、米などの供物を得ていたため、「空鉢仙人」とも呼ばれていました。 この一乗寺の、 国宝は、三重塔の他にも 絹本著色聖徳太子*及び天台高僧像もあります。これは、平安時代(11世紀後半頃)に作られたもので、龍樹、善無畏(以上インド)、慧文、慧思(南嶽大師)、智顗(天台大師)、灌頂、湛然(以上中国)、最澄、円仁(以上日本)の高僧像に聖徳太子像を加えて10幅としたも
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播州清水寺:法道仙人
第865話 播州・清水寺(きよみずでら)は、兵庫県加東市にありす。西国三十三所第25番札所。同じ西国三十三所の第16番札所である京都市の音羽山清水寺と区別するため播州清水寺と呼ばれています。 寺伝では、およそ1,800年前(古墳時代)に天竺の僧:法道がこの地に住み、鎮護国家豊作を祈願し、この清水寺を創建したともされています。この地は水に乏しく、水神に祈ったところ霊泉が湧水し、そのことに感謝して「清水寺」と名付けられたといいます。 播州・清水寺の 根本中堂の奥の道を進んで行くと おかげの井戸 があります。この井戸は、井戸の水面に顔を映すと寿命が3年延びると言われています。 法道仙人については、第865話: 行願寺と狩人 で下記のように書いています。 「狩猟者が改心して仏門に入る」あるいは「殺生から慈悲へ転換する」ような創建伝説を持つ寺院がいくつか存在します。特に有名なのが「法道仙人」にまつわる伝承です。法道仙人(ほうどうせんにん)は、近畿地方を中心に多くの寺院の開基とされる伝説的な人物です。彼の創建伝説の中には、狩猟者が仏法に目覚めて寺を建立すると
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六波羅蜜寺と銭洗い弁財天
第864話 六波羅蜜寺は 、京都市東山区轆轤町 (ろくろ=どくろ=髑髏) *にあります。西国三十三番札所第17番札所です。 創建年は不明ですが、平安時代の歴史書である扶桑略記によれば、踊り念仏で知られる空也が平安時代中期の天暦5年(951年)に造立した十一面観音を本尊とする道場に由来し、当初は西光寺と称していました。空也は疫病の蔓延する当時の京都で、この観音像を車に乗せて引きながら歩き、念仏を唱え、病人に茶をふるまって多くの人を救ったといいます。 空也は、 ひたすら「南無阿弥陀仏」と口で称える 称名念仏 (口称念仏)を初めて実践したとされ、日本における 浄土教 ・ 念仏 信仰の先駆者とされています。 六波羅蜜寺は、有名な空也上人 立像のある寺ですが、この六波羅蜜寺にも創建伝説があります。 上人が鞍馬山に閑居後、常々心の友としてその鳴声を愛した鹿を、定盛なる猟師が射殺したと知り、大変悲しんでその皮と角を請い受け、皮を衣とし、角を杖頭につけて生涯我が身から離さなかったという。定盛も自らの殺生を悔いて上人の弟子となり、瓢をたたき、法曲を唱し、寒い夜もい
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清水寺と地主神社
第863話 清水寺は、京都市東山区清水1丁目にあります。西国三十三所第16番札所です。 日本で一番観光客が多い寺でしょう。 清水寺の創建については、清水寺縁起、今昔物語集、扶桑略記などに伝承が載せられています。草創縁起は次の通りです。 宝亀9年(778年)に大和国の興福寺の僧:賢心は、夢のお告げがあり、山城国愛宕郡八坂郷の東山、今の清水寺の地である音羽山に至った。金色の水流を見出した賢心がその源をたどっていくと、そこにはこの山に篭って滝行を行い千手観音を念じ続けている行叡居士という白衣の修行者*1)がいた。年齢200歳になるという行叡居士は賢心に「私はあなたが来るのを長年待っていた。自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」といい残して去っていった。行叡は観音の化身であったと悟った賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが当寺の始まりであるという。また、行叡居士が滝行を行っていた滝は後に音羽の滝と呼ばれるようになった。 その2年後の宝亀11年(780年)に鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂(*2)
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11月11日読了時間: 6分


勝尾寺と三所権現
第862話 勝尾寺(かつおうじ)は、大阪府箕面市にあります。西国三十三所第23番札所です。開山は開成(かいじょう)とされています。 勝尾寺縁起によれば、神亀4年(727年)に藤原致房の子である善仲と善算の双子の兄弟(*1)がこの地に入って仏道修行に励み、草庵を設けたのが勝尾寺の始まりであるといいます。 ある日、善仲と善算は、石の上で座禅を組む一人の人物に出会います。何者かと尋ねると、自分は光仁天皇の皇子であり、仏門に入りたい思いから都を抜け出し、紫雲たなびくこの山へやってきたというのです。 皇子との出会いに運命的なものを感じた善仲と善算は、彼を草庵に招き戒を授けた。皇子は開成と名乗り、三人による修行が始まった。修行に励む三人は、仏道の妨げとなる悪い行いを防ぐべく、大般若経600巻の書写の誓いを立てます。 大般若経の書写を始める直前、善仲と善算は往生を遂げ、一人残った開成は、あらためて写経の決意を固めますが、紙は用意できたものの、金字で記すための金塊と、墨をするための水がありません。開成は天に向かって、それらが手に入るよう祈ったところ、夢の中で「写
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11月10日読了時間: 6分


今熊野観音寺:熊野権現の出現伝説
第861話 今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ)は、京都市東山区泉涌寺山内町にあります。山号は新那智山。「今熊野」の通称で知られる西国三十三所第15番札所です。 「今熊野」の熊野は、紀ノ國(紀州:和歌山県)のことです。 古くから紀州熊野の地は、観音の補陀落浄土としての信仰の中心であり、歴代の上皇・法皇はたびたび熊野御幸を重ねられ、特に後白河上皇などは御幸されること二十七度に及びました。しかし、都より遠く隔たった熊野の地への御幸は容易ではなく、また後白河上皇のころには世情も不安定であり御幸を断念せざるを得なかったため、古くから熊野権現出現の伝説地でもある今熊野の地を紀州熊野の観音霊場になぞらえて、社殿を山麓に造営されました。 後白河上古 は、今熊野と呼ばれていた当地一帯に目を付け、 永暦 元年( 1160年 ) に当地に新たに熊野権現*を勧請し、「新那智山」の山号を授かりました。那智山は、第一番札所の 青岸渡寺 があるところです。台与の生誕の地である可能性もあります。 ~第847話: hidemaru3375.com/post/台与の生誕の地は?
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11月9日読了時間: 6分


園城寺(三井寺)
第860話 園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にあり、なお一般には三井寺(みいでら)として知られています。境内にある観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所です。近江八景の一つである「三井の晩鐘」でも知られています。平安時代などの日本古典文学で、何も注釈を付けず「寺」と書かれていれば、この園城寺を指すとされているほど有名な寺です。 開基(創立者)は大友与多王とされていますが、日本書紀などの正史には記載がなく、公式な皇族としての記録は残されていません。 第761話: 天武天皇は台与(2):大友皇子と東漢氏 では、「 大海人(天武天皇)は、 壬申の乱に勝利して天皇に即位したとされています。対立したのは、 大友皇子 で、その大友皇子を養育したのが、大友村主です。 ウツシコオ(内色許男命) でしょう。」と書いています。 大友村主は一説では仁徳天皇の時代に阿智使主とともに日本に渡来した帝利(みかどり)を祖としています。近江朝廷における大友皇子(弘文天皇)の主たる支持勢力を成したと推察されています。応神天皇20年9月条に「倭漢直(やまとのあやの
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11月8日読了時間: 7分


善峯寺と鷲尾寺
第859話 善峯寺(よしみねでら)は、京都市西京区にあります。西国三十三所第20番札所。桜や紅葉の名所になっていて、境内各所から京都市街や比叡山を一望できます。 寺に伝わる善峯寺縁起絵巻によれば、長元2年(1029年)に浄土教の祖:源信の弟子にあたる源算が47歳で当山に入り、小堂を建てて自作の千手観音像を本尊として祀ったのが創建とされています。 秘仏本尊は、平安時代後期から鎌倉時代初期の作とされる。寺伝では後朱雀天皇の命により 洛東の鷲尾寺 から移したものです。この 尊の御衣木(みそぎ。尊像を作るのに用いる木材)は、 下鴨神社 の槻の霊木で作られたと伝えられています。 伝説では、「下賀茂神社地田の田主が苗を植えると、苗が一夜にして槻(けやき)の木へと変わりました。後に槻の木は朽ち折れて倒れますが、その木から千手観音の真言が聞こえるので皆不思議に思い、誰も斧を入れませんでした。歳月が流れて、寛弘年間(1004~1012)に行円上人が霊夢を受けて、賀茂神社の神主を詣って夢の内容を話されたところ、神主は槻の木を斬って行円上人に与えました。この材をもって
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11月7日読了時間: 8分


岩間寺と狗奴国:塔の峰
第858話 岩間寺 正法寺(しょうほうじ)は、滋賀県大津市にあります。開山は加賀国白山を開いた泰澄(たいちょう)です。西国三十三所第12番札所です。正法寺は、滋賀県と京都府との府県境の一部をなす岩間山(標高443m)南麓の標高390m辺りに位置しています。 奈良時代に、泰澄(たいちょう)がカツラの木で千手観音を刻み、本尊にしたのが始まりと伝えられています。 岩間寺:正法寺 本尊の観音像は、人々を苦しみから救うために、毎晩136の地獄を巡るので全身から汗を出すといわれ、「汗かき観音」としても知られています。 雷が爪で掘った雷神爪堀湧泉は"不老長寿の水"と呼ばれ、健康長寿ぼけ封じを願う参拝者も多く訪れます。そのため、「ぼけふうじ観音」、「雷除け観音」「"厄除け観音」などと呼ばれています。 最も有名は俳句である 松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」が読まれたのは、この岩間寺だとされています。 岩間寺を開山したとされる泰澄は、このブログでたびたび登場する行基に次いで、何度か登場しています。最初に登場したのは、 第115話: 菊理媛神~大目は大日(守口市)
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11月6日読了時間: 5分


石山寺:石(岩)と金
第857話 石山寺は、滋賀県大津市石山寺にあります。西国三十三所第13番札所です。 琵琶湖の南端近くに位置し、琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川の右岸にあります。本堂は国の天然記念物の珪灰石という巨大な岩盤の上に建ち、これが寺名の由来ともなっています。 岩盤と台与の関係はこれまでも何度か書いています。 <石:岩:イワ> 長谷寺では、泊瀬(はせ)の地を補陀落山に見立て、小泊瀬の険しい崖に懸崖造りのお堂を建て、自然湧出に見立てた盤石に観音を安置しています。「磐石に立つ」ことが長谷観音にとっては大きな意味があるのです。 磐座神社の磐座( いわくら) とは、古代より神として信仰されている巨大な岩のことです。磐(岩)は台与のキーワードです。 ~ 第451話: 磐衝別命と健磐龍命 第594話: 彦狭知の物語(6)~アメノヒボコ 第722話: 由加神社本宮・尾針神社~岡山県 伊和(イワ)大神=台与(豊)です。なぜなら伊和(イワ)=岩で、イワは台与(豊)の事だからです。播磨風土記 の記載では、播磨国の神である伊和大神と葦原志許乎命(大己貴神の別称・葦原醜男)は
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11月5日読了時間: 8分


行願寺と狩人
第856話 #狩猟者改心伝説# 行願寺#革堂 革堂 行願寺は、京都市中京区寺町通竹屋町にあります。西国三十三所第19番です。 百錬抄、日本紀略等によれば、寛弘元年(1004年)に行円が一条小川の一条北辺堂の跡地に一条北辺堂を復興し、新たに行願寺と名付けたものです。一条北辺堂については、日本紀略:永祚元年(989年)に「一条北辺堂舎倒壊」とあり、当寺の創建以前から存在したようです。 行願寺創建については次のような話が伝わっています。 「行円は仏門に入る前は狩猟を業としていたが、ある時、山で身ごもった雌鹿を射たところ、その亡くなった雌鹿の腹から子鹿の誕生するのを見て、殺生の非を悟って仏門に入った」というものです。行円はその雌鹿の 皮 を常に身につけていたことから、皮聖、皮聖人などと呼ばれ、それによって当寺の名も 革 堂と呼ばれるようになったとされています。 これに似た話はとしては、 第473話: 英彦山と台与 でも書きました。 豊後国日田郡の藤原恒雄は、よく猟をしており、獣を追って山に入ったとき、岩窟に座している善正に出会います。藤原恒雄は猟を続けま
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11月4日読了時間: 7分


醍醐寺と白髪の老人
第855話 醍醐寺(だいごじ)は、京都市伏見区醍醐東大路町にあります。上醍醐の准胝堂(じゅんていどう)は、西国三十三所第11番札所です。京都市街の南東に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内を持ち、国宝や重要文化財を含む約15万点の寺宝を所蔵しています。豊臣秀吉による「醍醐の花見」が行われた地としても知られています。 醍醐寺縁起によると平安時代前期のある日、真言宗の開祖である弘法大師・空海の孫弟子で、醍醐寺開山である理源大師(りげんだいし)・聖宝(しょうぼう)が空海の弟・真雅(しんが)が建立した深草の貞観寺(じょうがんじ)から東の方を見ていると五色の雲がたなびいているのが見えました。その雲に誘われて笠取山に登り、山頂に着くとまるで生まれ故郷に帰ったような思いがしたそうです。そして谷間を見ると 白髪の老人 が湧き出る水を飲んで、「甘露(かんろ)。甘露。ああ醍醐味なるかな」と言ったとされています。この醍醐味から醍醐寺と名付けられたそうです。 この水は醍醐水と呼ばれ、現在も枯れることなく湧き続けています。 このブログを書いているうちに、古く
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11月3日読了時間: 5分


長者伝説と台与(邪馬台国)
第854話 # 真名野長者 # 松浦長者 #河内の長者 垂仁天皇の王宮について、珠城(たまきの宮)は「穴師(あなし)村の西にあり。俗に 長者 屋敷という」という言い伝えがあります。穴師は 奈良県桜井市(〒633-0071)の地名です。大神神社の近くです。 日本各地には、富と栄華を極めた「 長者 」にまつわる伝説が数多く残されていて、それぞれの地域性や信仰、教訓が色濃く反映されています。 真名野長者(大分県)は、大分県臼杵市に伝わる伝説です。 都に、顔に醜いあざのある姫がいたが、仏のお告げに従って豊後の深田に住む炭焼き小五郎のもとへ行き夫婦になるという話なのですが、この顔に醜いあざのある姫は、毎日、三輪の神社参詣していたとされています。つまりこの姫は奈良の大神神社のすぐ近くに住んでいて九州に行き、炭焼きの男と結婚したという話なのです。 2人は数々の奇跡により富を得て長者なり、1人の娘が生まれた。般若姫と名付けられた娘は都にまで伝わるほどの美女に成長し、1人の男と結婚するが、実はその男は都より忍びで来ていた皇子(後の用明天皇)であったとされています
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11月2日読了時間: 5分


スガル:少子部蜾蠃(ちいさこべのすがる)
第853話 #赤目のスガル #ちいさこべのスガル #邪馬台国 子供のころ、白土三平の「カムイ外伝」を読んでいました。その中に、赤目のスガルというくノ一(くのいち:女の忍者)が登場します。2009年、松山ケンイチ主演・崔洋一監督で「スガルの島」が映画化されたので、知っておられる方もいらっしゃるしょう。 赤目のスガルの「赤目」は、三重県名張町にある地名です。赤目四十八滝で関西の人には良く知られています。では、「スガル」となんでしょうか。 日本書紀、日本霊異記に雄略天皇時代の豪族として少子部蜾蠃(ちいさこべの すがる )が書かれています。スガルは、「栖軽」とも表記されます。「多神宮注進帳」によれば、多武敷の子、多清眼の弟とされています。多氏は、神八井耳命を祖とする氏族です。 神八井耳命=聖徳太子は台与です。~ 第537話: 神八耳命は台与(豊) 「蜾蠃」(スガル)は、万葉集巻第九1738の長歌に「腰細のすがる娘子」とあり、腰の細い似我蜂(ジガバチ)を指します。「少子部:ちいさこべ」は「子部(児部)」と同様に、天皇(大王)の側近に仕える童子・女孺らの養育
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11月1日読了時間: 5分


此花区:大阪と邪馬台国
第852話 # 西念寺#庚申堂#猿田彦 此花区(このはなく)は、大阪市の24ある行政区の一つです。此花区には、 此花区には、最近ではディズニーランドよりも人気のあるUSJ(ユニバ)があります。 関西万博会場の夢洲も此花区です。 関西万博会場もユニバ(USJ)も埋め立て地であることから、此花区には古い寺社などはないと思っていましたが、意外と古い歴史のあるところです。 伝法山西念寺は、大化元年(645年)天竺南山道宥律師の教伝により、法道仙人が仏法伝導道場を建立されたのがはじまりとされています。中世には摂津伝法の船寺として信仰を集め、広大な寺領を持ち、摂津・河内・泉(和泉)という三国の四大本山の一つとして栄えたといます。西念寺は別称: 難波津ノ船寺ということから、難波津との関連があったとおもわれます。 伝法は淀川河口の港町として古くから栄えた土地で、「伝法」という地名の由来には諸説あります。 6世紀、欽明天皇の時代に仏教の経典が初めて着岸した地であるとする説 7世紀、天竺の法道上人が初めて訪れて仏法を伝え、草庵を立てたとする説
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10月31日読了時間: 6分


羽曳野:大阪と邪馬台国
第851話 大阪府に羽曳野という市があります。大阪府南河内 地域に位置しており、 ブドウとイチジク 栽培が盛んで、また古墳などの古代史跡の多い地です。 この羽曳野のという地名は、ヤマトタケルの伝説に基づいているとされています。 羽曳野市古市に白鳥神社があり、 その白鳥神社の社伝には、日本武尊が死んで白鳥になって、最後に旧市邑(ふるいち)を飛び立つときに、 「 白鳥は舞い上がり埴生野の丘を羽を曳くがごとく飛び立った 」 と記されています。この「羽を曳く~」から「羽曳野」の地名が付いたようです。 羽曳野市周辺は古代大和政権とのつながりが強く、いろいろなエピソードが残っています。 現在、旧竹内街道沿いには埴生(はにゅう)という町があります。ここも古事記に出てきます。 履中天皇の歌に 「波邇賦(はにゅう)坂 我が立ち見れば かぎろひの 燃ゆる家村 妻が家あたり」 といのがあります。これは履中天皇が難波宮で宴会し寝てしまったところ、弟のスミノエノナカツミコが反乱を起こし、宮殿に火を点けたので、あわてて大和の国へ逃げる途中、埴生の坂から難波宮をかえり見て詠ん
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10月30日読了時間: 6分
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