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地名から読み解く邪馬台国


稲背入彦命は桃太郎
第1051話 稲背入彦命は、第1046話:佐伯氏:佐伯部と蝦夷(2)で登場しました。滋賀県野洲市にある兵頭大社の社伝「兵主大明神縁起」によれば、景行天皇は皇子・稲背入彦命(いなせ・いり彦)に命じて大和国穴師(奈良県桜井市穴師、穴師坐兵主神社)に八千矛神を祀らせ、これを「兵主大神」と称して崇敬したといいます。八千矛之神は日吉大社(大津市)から亀に乗って琵琶湖を渡り、そこから鹿に乗ってやってきたといいます。そして稲背入彦命=台与と同一人物でしょう。と書きました。 姫路市内にある白国神社があります。この白国(しらくに)については、播磨国風土記:飾磨の郡:新良訓(しらくに)の条で、新良訓と名づくる所以は、昔、新羅の国の人、来朝ける時、この村に宿をとったから「白国」と名付けられたとあります。 白国神社の祭神は稲背入彦命と阿曾武命(あそたける)と神吾田津日売命(かむあたつ姫)の三柱です。 社伝によれば、今を去る千七百年の昔、景行天皇の皇子である稲背入彦命が、大和から当地(白國)へ下向された時に宮殿を構えて統治された。とあります。 新羅の国の人というのは、スサ
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葵祭と三社祭
第1050話 葵祭(あおいまつり:正式には賀茂祭)は、京都市の賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)で、5月15日(陰暦四月の中の酉の日)に行われます。平安時代、「祭」といえば賀茂祭のことを指していました。 ちなみに賀茂御祖神社(上賀茂神社)の祭神は、賀茂建角身命はスサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)=難升米です。賀茂は神。建角身命は八咫烏(ヤタガラス)であることは、周知の事実です。 ~第592話:彦狭知の物語4~八咫烏 第593話:彦狭知の物語5~賀茂建角身命 賀茂別雷神社(上賀茂神社)の祭神は、賀茂別雷大神は、台与です。雷=イカヅチ=ミカヅチ=タケ(建)ミカヅチです。 第441話:タケミカヅチは台与で書いたように、上賀茂神社と下賀茂神社の配置は、鹿島神宮(茨城県)と香取神宮(千葉県)の配置と同じです。 香取神宮の祭神である経津主大神(ふつぬしのおおかみ)が賀茂建角身命=スサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)=難升米で、鹿島神宮の武甕槌大神(タケミカズチ)=台与です。経津主大神(ふつぬしのおおかみ)の「経津:ふつ
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佐伯氏と隼人:佐伯部と蝦夷(3)
第1049話 佐伯部または佐伯直を祖とする佐伯氏は、讃岐、伊予、安芸、阿波に封じられたとされています。具体的には、古墳時代の中頃に播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5か国に佐伯部がみえます。 佐伯氏の分布をみてみると、 丹波(桑田・船井)、摂津(住吉・難波)、大和(宇智・吉野周辺)、熊野・紀伊沿岸です。 これらの地名は、このブログでしばしば登場しています。 丹波の桑田については、 ・出雲大神宮は、丹波国桑田郡にあります。~第1005話:出雲大神宮:丹波と邪馬台国(4) ・第1006話:丹波国の人々:丹波と邪馬台国(5)では、桑田郡は、丹波国の中心地で、倭彦王(やまとひこのおおきみ)が居た場所であることを書きました。 ・第508話:桑田皇女と奈具遺跡では、桑田皇女は台与であることを述べています。 住吉は、邪馬台国の最も重要な拠点地です。~第112話:底・中・表筒男命~住吉大社 第920話:秦王国は大阪 熊野・紀伊沿岸は、台与・スサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)のホームタウンです。~第543話: 熊野の神々は、、、 大和の「宇智」は、「うち=
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佐伯氏:佐伯部と蝦夷(2)
第1048話 #兵頭大社 #佐伯直 前回:佐伯部と蝦夷(1)で書いた佐伯部を率いていたのが、佐伯氏です。 日本書紀によれば、部民としての佐伯部は、もともと東国人の捕虜(蝦夷)であったが騒がしいことを理由に景行天皇の命で、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5か国に送られたのがその祖であるとの起源を伝えています。これらを統率したのが佐伯直人物です。 佐伯直(佐伯連)→佐伯氏→佐伯部ということです。 新撰姓氏録には、針間別佐伯直は、景行天皇の皇子・稲背入彦皇子の後裔氏族で、成務天皇の時代に同皇子の子である御諸別命(針間別命)が播磨国に封ぜられて以来、氏名を「針間別(はりまわけ)」とし、応神天皇が播磨国に行幸した時に、同国の佐伯部を御諸別命の子である針間国造の伊許自別命(阿良都命)に伴造として管掌させるとともに、「針間別佐伯直」と改賜姓したが、天智天皇9年(670年)の庚午年籍作成に際して、「針間別」の3字を除いて「佐伯直」と称するようになったとあります。 ・針間別の「針間:はりま:播磨」は呉の勝が移動した地です。呉の勝は、紀伊の国(和歌山)の名草の郡の太田
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3 日前読了時間: 6分


佐伯部と蝦夷(1)
第1047話 佐伯部(さえきべ)は古代日本における品部の1つです。ヤマト王権の拡大過程において、中部地方以東の東日本を平定する際、捕虜となった現地人(蝦夷・毛人:えみし)を、近畿地方以西の西日本に移住させて編成したものです。 佐伯部は、「叫ぶ」に由来するとされてきました、常陸国風土記:茨城郡条には、土着民である「山の佐伯、野の佐伯」が王権に反抗したことが記されています。 他にも、「障(さへ)ぎる者(き)」で、朝廷の命に反抗する者の意味、また景行天皇紀に「騒い」だとあることに着目し、「大声を発して邪霊や邪力を追いはらったり、相手を威嚇するといった呪術的儀礼に従事」するのが彼らの職掌で、佐伯部は「サハグ部」で、あるいは、聞きなれない言葉を話すので「騒(さえ)ぐ」ように聞こえたことに由来するとする説もあります。 日本書紀によれば、日本武尊(ヤマトタケル)が東征で捕虜にした蝦夷を初めは伊勢神宮に献じたが、昼夜の別なく騒いで神宮にも無礼を働くので、倭姫命によって朝廷に差し出され、次にこれを三諸山(三輪山)の山麓に住まわせたところ、今度は大神神社に無礼を働き
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靭(うつぼ):御霊神社
第1046話 大阪と邪馬台国 前回:世田谷と瀬田:地名から読み解く邪馬台国で書いた御霊神社(ごりょうじんじゃ)の祭神は、大友皇子でした。御霊神社は大阪市中央区淡路町にもあります。ここの祭神は、津布良彦神、津布良媛神です。津布良(つぶら)とは、大阪湾岸の圓江(つぶらえ)で、現在の靱(うつぼ:大阪市西区靱本町)です。 靱は、かつての靱塩干魚市場のあるところでした。靱塩干魚市場は干物や肥料にする干鰯などの海産物を全国から集めていましたが、1931年の大阪市中央卸売市場の開場後に閉鎖され、1945年の大阪大空襲で一帯は焼け野原となってしまいました。 圓江(=靱)で行われた八十嶋祭(大嘗祭の翌年に行われる)の祭場とされた圓神祠(つぶらしんし)に、瀬織津比売神、津布良彦神、津布良媛神が祀られると、社はやがて圓神社、圓江神社、津村神社と呼ばれるようになり、摂津国津村郷の産土神社となります。この当時の御霊神社は大阪市西区靱本町にある楠永神社の近辺にあったといいます。 津村郷は、難波津の一部として古代より開けたところで、内蔵寮領等目録(宮内庁書陵部所
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世田谷と瀬田:地名から読み解く邪馬台国
第1045話 先日(5月9日)、ブラタモリで成城のことについて放送していました。 成城が世田谷区であることを知りました。 世田谷は、第679話:伊豆美神社~東京都狛江市で書いた狛江市に隣接しています。 狛江市と、京都府相楽郡の伊豆美と非常に関係の深い地であることを書きました。 この記事を書いたときには気づいていなかったのですが、相楽郡の伊豆美は「美豆」で台与のことです。~第1025話:映画国宝と天知迦流美豆姫 東京都狛江市にも伊豆美神社があります。 東京都の伊豆美神社の近くには多摩川が流れています。延喜式には多麻郡の字であらわれ、のちには多磨郡とも表記され、「たま」「たば」と読まれたことから、地名の由来は、丹波が転訛したもの、かつて麻が多い地域であったという伝承があります。丹波については、第999話:脱解王の神話(1):多婆那国~第1013話:扶桑国は投馬国(丹波・但馬)で台与との関係を書きました。 ところで、滋賀県大津市には、瀬田という地名があります。琵琶湖から唯一流れ出る川が瀬田川です。瀬田には古いお寺や神社がたくさんあります。...
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6 日前読了時間: 5分


邪馬台国と牛
第1044話 前回:ワカフツヌシ:出雲と台与(10)では、「ワカフツヌシは牛飼神とされています。」と書きました。 風説ではワカフツヌシは、牛を飼育する技術に長けている牛飼神として信仰されており、現在の出雲大社本殿には和加布都努志命(ワカフツヌシ:若布都主)と耕牛の神像が心御柱の側に祀られています。日本では牛が出雲を中心に中国地方で数多く飼育されており、牛飼神とされるワカフツヌシの信仰圏と重なっていることが論じられています。 ~飼牛のすゝめ - 国立国会図書館デジタルコレクション このブログでは、牛はウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)=難升米のキーワードとしてきました。 ・スサノオ=ウツシコオは牛頭天王として祭られています。 ・頭に角が生えた人=ツヌガアラシヒト=アメノヒボコはウツシコオです。 おそらくウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)は戦の時、角(ツノ)のついた兜をかぶっていたのでしょう。 ・事代主=賀茂建角身命(たけつのみ)=八咫烏です。 ~第388話:スサノオのキーワードは角と竹と、、 ・先代旧事本紀は、日子寤間命の同
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5月11日読了時間: 5分


ワカフツヌシ:出雲と台与(11)
第1043話 ワカフツヌシは台与 出雲国風土記の秋鹿郡の大野郷条と出雲郡の美談郷条にワカフツヌシなる神が登場します。 ワカフツヌシは、和加布都努志、和加布都怒志、若布都主、若経津主)などと表記されています。布都(ふつ:経津)はウツシコオのことです。 *普都大神の「普都:ふつ」は、経津主神(ふつぬし)の「ふつ」で、ウツシコオ(内色許男命)=スサノオの事です。 彦太忍信命は、孝元天皇皇子で、武内宿禰の父または祖父とされています。武内宿禰はウツシコオです。日本書紀では「彦太忍信命」、古事記では「比古布都押之信命」と表記されます。これにより布都=経津=太に同じであることが分かります。 経津主神(ふつぬし)=太主=天太玉命=彦狭知=ウツシコオ(内色許男命)=スサノオ=難升米です。~彦狭知(ヒコサチ)の物語(1)~経津主神 ワカフツヌシは「若い方の布都(ふつ)主」ということは台与といういうことです。 古事記では建御雷神(タケミカズチ)と経津主神(布都主神)は同様の神らしく 「建御雷之男神またの御名、建布都神、豊布都神」とあります。タケミカズチは台与です。 ~
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5月10日読了時間: 5分


多具・多伎・多久:出雲と台与(10)
第1042話 #アジスキタカヒコネ 出雲国風土記には次のような記述があります。 楯縫郡に、阿遅須枳高日子根(アジスキタカヒコネ)*の后・天御梶日女の命が、多具の村においでになって、 多伎都比古の命をお産みになった。 *阿遅須枳高日子根(アジスキタカヒコネ)は台与です。~第874話:高負彦根神社:アジスキタカヒコネは台与 多伎は、多具(あるいは多久)のことのようです。 多伎都比古の命の御霊代である石神は、日照り続きで雨乞いをした時は、かならず雨を降らせられたといいます。多伎(たき)は、 瀧(たき)を連想させます。 愛媛県今治市古谷に多伎神社(たきじんじゃ)があり「瀧の宮(多伎宮)」と呼ばれています。伊予国内神名帳には「正一位 多伎不断大願大菩薩」とあります。 社殿は頓田川の支流・多伎川の畔にあり、周囲には30基余りの古墳が群集しています。多伎川を遡った山頂近くに川上巌(かわかみのいわお)と呼ばれる磐座があり、奥の院とされる。雨乞いに霊験があると伝えられ、もとはこの磐座信仰に始まると考えられています。 先ほどの石神とは、この川上巌(かわかみのいわお)
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5月9日読了時間: 4分


勝氏:出雲と台与(9)
第1041話 #物部神社 #勝氏 #八束水臣津野命 勝という姓で、すぐ頭に浮かんでくるのは、勝海舟です。私の世代では、座頭市でおなじみの勝慎太郎でしょう。 勝氏(かつ/すぐり)は、日本の氏族、姓のひとつですが、勝氏は百済の帰化人系の氏族といわれ、西文氏(かわちのふみうじ)の末裔で、大和の勝氏は西漢氏の庶家ともいわれています。 また、因幡・讃岐・紀伊・伊勢・駿河では秦氏の同族とされ、秦氏の中には「…勝」と称する氏族があると指摘されています。勝氏は秦氏と同族とする文献もあります。 ~伊藤信博「桓武期の政策に関する一分析(1)」名古屋大学『言語文化論集』26巻2号、2005年、8頁。 近江の勝氏は物部姓の系統と伝わっています。寛政重修諸家譜の勝氏系図では物部尾輿の末裔で近江国坂田郡勝村の勝冠者季時の後裔市郎左衛門時直を祖とするといいます。 物部尾輿は、第989話:羽束物部:物部氏について(8)で登場しており、矢作・倭鍛部・羽束物部*といった箭(弓矢の竹の部分)の製作に関わった氏族と物部氏との密接なつながりが明らかとなっています。物部尾輿や守屋はこれら.
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5月8日読了時間: 5分
邪馬台国 第1001話~第1040話
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5月7日読了時間: 3分


楯縫2:出雲と台与(番外編)
第1040話 前回:楯縫:出雲と台与(8)で書いた茨城県稲敷郡美浦村郷中にある楯縫神社(たてぬいじんじゃ)は、普都(ふつ)神話の聖地の結び付きから竹来阿彌神社(下記)と関係が深く、往古は信太郡東西の総社として一宮二宮を称し、ともに永和元年(1375年)の円密院寺社供僧等言上状に「庄内第一之惣廟」と書かれています。楯縫神社は信太郡一宮として、旧郡域一帯では筆頭の格式にあり、普都主命*の神輿(みこし)を霞ヶ浦を介して阿彌神社に渡御する古式祭(鹿島神事*)も行っていました。 *普都主命(経津主:ふつぬし)はスサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)=難升米(台代の父親)です。~第589話:彦狭知(ヒコサチ)の物語(1)~経津主神 ※楯縫の由来 普都大神は、葦原中国平定の後、木原(茨城県稲敷郡美浦村)で甲楯を脱ぎ、高来里(茨城県稲敷郡阿見町竹来)で登天した。甲楯を脱いだことから「楯脱」の地名が生まれ、後に「楯縫」になりました。社地には「楯脱山」の地名が残っています。 新編常陸国誌は「祭神:彦狭知命*と云伝ふ、郡中東33村の鎮守にして、即本郡の一宮
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5月7日読了時間: 6分


楯縫:出雲と台与(8)
第1039話 楯縫郡(たてぬいぐん)はかつて、島根県(出雲国)にあった郡です。 1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、出雲市の一部(小境町、坂浦町以西かつ斐伊川、東林木町、西林木町、別所町、唐川町、猪目町より北東)にあたります。 楯縫という固有名詞は、どこかで聞いたことがあります、茨城県稲敷郡美浦村郷中に 楯縫神社(たてぬいじんじゃ)は、(信太郡木原村)にあります。古名は信太郡一宮。美浦村信太にも同名の楯縫神社があります。 参道は国道125号現道に面していますが、境内は奥まった場所にあります。巨樹林立する樹叢に、長大な参道が通り、奥部に社殿を構えています。境内は茨城県指定自然環境保全地域です。常陸国風土記の信太郡の条の普都神話に描かれています。普都大神*が楯を脱いだ地、すなわち「楯脱(楯縫)」の聖地とされています。 主祭神は、普都主命(普津主神、普都主大神)です。 配祀神は、大己貴命二座、須佐之男命、宇迦魂命二座、皇産靈命、市杵島姫命、熊野加夫呂岐命です。境内案内板では記紀神話における經津主神の事績を紹介し、普津主神、普都
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5月6日読了時間: 5分


出雲井於神社 :出雲と台与(7)
第1038話 京都の下賀茂神社の境内に愛宕郡 出雲井於神社があります。延喜式に「出雲井於神社」とある神社で、日本書紀:神武天皇2年の条に葛野主殿県主部とある氏族が祖神として奉斎した社です。この葛野主殿県主部は古代山城北部に蟠踞し、鴨氏と同じ祖先を持ち「神亀3年(726)山背国愛宕郡出雲郷雲上、雲下里計帳(正倉院文書)で知られる氏族です。 葛野主殿県主部は、古代日本の重要な歴史的団体であり、八咫烏の子孫とされています。彼らは、山城国北部に居住していた豪族であり、賀茂氏に吸収されたとも言われています。葛野主殿県主部は、古代日本の神社や祭祀に関与していたとされ、特に賀茂社との深い関係が考えられています。八咫烏(ヤタガラス)はスサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)=難升米(台代の父親)です。~第274話:八咫烏もウツシコオ つまり、葛野主殿県主部は、秦氏=台与の一族ということです。秦氏は山背国愛宕郡(おたぎぐん:京都市左京区、北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされています。 第826話:保津川と葛野大堰で書いたように、葛野は
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5月5日読了時間: 6分


三島足奴:出雲と台与(6)
第1037話~佐太神社 三島足奴も出雲国造です。 三島足奴(みしまのすくね)は、前回:飯入根:出雲と台与(5)で書いた飯入根(いいいりね)、意宇足奴(おうのすくね;淤宇宿禰)の父とされる人物です。日本書紀:仁徳天皇時代に登場しています。仁徳天皇は台与です。 ~第582話:仁徳天皇(第16代)と大仙陵古墳 前回で、飯入根は台与としました。ということは、三島足奴は、スサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)=難升米(台代の父親)です。 三島足奴の「足奴」は「宿祢」のことで、このブログでは、記紀に登場する「宿祢」はすべてウツシコオの事としています。 出雲には、佐陀川があり佐太の平野があります。そこには佐太神社(島根県松江市鹿島町佐陀宮内)があります。鹿島は志賀島と同じで、鹿はウツシコオです。 →第803話:卑弥呼と銅鐸(3):邪馬台国と鹿 佐太神社で祀られている佐太御子大神は、猿田彦です。猿田彦はスサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)=難升米です。~第596話:彦狭知の物語8~猿田彦 今回、問題としたいのは、三島足奴の「三島」です。三島と
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5月4日読了時間: 4分


飯入根:出雲と台与(5)
第1036話 #出雲振根命 #氷香戸辺 #出雲の神宝 あまり研究者からは、重視されていませんが、飯入根(いいいりね)も出雲国造の祖です。 日本書紀、先代旧事本紀の系譜記事に基づくと、 飯入根は「出雲国造の祖(=出雲国造家の先祖の一人)」とされています。特に国造本紀では、飯入根の子が出雲国造に任じられたと明記されており、これは飯入根が出雲国造家の系譜に組み込まれていることを意味します。 研究者たちが、飯入根の存在を重視しないのは、飯入根が兄の出雲振根に殺される役を演じるだけの存在だからです。 第10代崇神天皇の条には、国造の祖の飯入根が兄の出雲振根に独断で神宝を朝廷に献上し、これに憤慨した出雲振根は、弟を水浴に誘って偽の刀とすり替えて騙し討ちした。 とあります。 飯入根を殺した出雲振根は、崇神天皇*に派遣された吉備津彦*と武渟川別*によって誅殺されてしまいます。国造本紀には飯入根の子が出雲国造に任命されたしています。 時の人はこの情景を以下のように和歌に詠んだといいます。 「や雲立つ 出雲梟帥が 佩ける大刀 黒葛(つづら)多(さは)巻き さ身無し
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5月3日読了時間: 5分


天の夷鳥:出雲と台与(4)
第1035話 出雲国造神賀詞に次のような記述があります。 「そこで、アメノホヒ命は、天の夷鳥(ひなどり)にフツヌシをつてけ天下らせた。」 この部分は古事記では、こうです。 「そこで、天照大神は、さらにタケミカヅチ神、天の鳥船(アメノトリフネ)を葦原中つ国に遣わした。」 そして、日本書紀では、「そこで、タカムスビ神は、さらにタケミカヅチ神・フツヌシ神を蘆原中津国に遣わした。」 この比較により、アメノホヒ=天照大神、天の夷鳥=タケミカヅチで、フツヌシ=天の鳥船であることがわかります。 天の夷鳥は、建比良鳥命と同一の神格と考えられています。建比良鳥命は台与です。 ~第563話:アメノホヒは台与(豊)~創られた神2 第394話:天御鳥命(武夷鳥命)は火の鳥 ・タカムスビ神(高木神)は、スサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)=難升米です。~第246話:高御産巣日神(高木神) ・タケミカヅチは台与で、フツヌシはウツシコオです。~第441話: タケミカヅチは台与!! ネット上では、古代出雲大国という邪馬台国(大和朝廷)に匹敵する強大な国家があったよう書
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5月2日読了時間: 5分


出雲の誕生:出雲と台与(3)
第1034話~出雲振根と淤宇宿禰 出雲臣(出雲国造)の祖として、二人の名前が伝えられています。 出雲振根(イズモフルネ)と淤宇宿禰(オウのスクネ)です。 出雲振根は出雲西部の豪族で、淤宇宿禰は出雲東部の豪族で、出雲の国造であったともされています。しかし、その根拠は十分に論証されたものではありません。 出雲フルネは、古代出雲の首長である「出雲建(いずもたける)」を指す言葉であり、日本書紀や古事記の神話に登場する人物です。景行天皇の時代に倭建命(日本武尊)に討たれたという逸話が伝えられています。 第165話: 出雲振根(いずもふるね)では、出雲振根の弟の飯入根(イイイリネ)は姓氏録には「土師宿禰・菅原朝臣の祖の天穂日(アメノホヒ)*の12代孫の飯入根」とあり、同じく弟の甘美韓日狹(ウマシカラヒサ)は同じく姓氏録の「凡河内忌寸*の祖で天穂日の13代孫可美乾飯入根」と同一人物ではないかと思われます。出雲振根も河内(大阪府)の人物だった可能性があります。と書いています。*アメノホヒは前回:出雲と台与(2):アメノホヒ、キヒサツミで台与としました。...
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5月1日読了時間: 5分


出雲と台与(2):アメノホヒ、キヒサツミ
第1033話~出雲の祖は台与 古事記によれば、出雲国造の祖は天照大御神の子神・天穂日命(アメノホヒ)と、その子神・建比良鳥命(タケヒラトリ)だとされています。アメノホヒは、農耕神、稲穂の神、養蚕の神、木綿の神、産業の神です。 第563話:アメノホヒは台与(豊)~創られた神2では、次のように書いています。 天照大御神(アマテラス)の子とされ、葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされますが、大国主神を説得するうちに心服して地上(出雲)に住み着き、3年間高天原に戻りませんでした。大国主神の子である事代主神や建御名方神を平伏させ、日本国の支配に成功すると、アメノホヒの子の建比良鳥命は出雲国造及び土師氏らの祖神となったとされています。 記紀によれば、天穂日命は使命を帯びて出雲へ向かったが3年間高天原に戻らなかったため、次の使節が次々と派遣されて、天穂日命の功績はなかったように記されていますが、国譲りの後、大国主を祀る出雲大社の祭祀を司るという功績があるとされています。出雲大社の国造家は天穂日命の子孫と伝えられています。 任務を遂行しなかったというの
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4月30日読了時間: 6分
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