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地名から読み解く邪馬台国


蘇我氏の真実(4)木羅斤資と昆支王
第915話 第913話: 蘇我氏の真実(2):蘇我 満智(そがのまち) では、 木満致=蘇我 満智がウツシコオある事を書きました。木満致(もくまんち)は百済将軍の木羅斤資(もくらこんし)の子とされています。 第758話: 昆支王(こにきし)は、応神天皇(台与) では、 昆支王(こんきおう)は台与としました。 それでは、木羅斤資(もくらこんし)と昆支王(こんきおう)の関係はどうなっているのでしょう。私の推論では、 木満致は、 ウツシコオ(内色許男命) = スサノオ(津田の王 ) で、 昆支王は台与です。 結論から言うと、木羅斤資と昆支王に、直接的な血縁関係を示す史料はありません。 しかし、「百済王族とその側近(貴族)という政治的ペアとして行動した可能性」は、近年の研究で強く指摘されています。 1. 史料上の立場 ● 昆支王(扶餘昆支)- 百済・蓋鹵王の子(または弟)- 文周王の弟- 東城王・武寧王の父 - 461年に倭へ渡来(日本書紀) 475年の漢城陥落後、百済王族の中枢人物 - 飛鳥戸氏の祖とされる。 ● 木羅斤資(木羅氏)- 百
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蘇我氏の真実(3):蘇我氏と秦氏・葛城氏
第914話 今回は、なぜ蘇我氏は“大臣”として台頭する以前から、王権の財政機構を掌握できたのかを考えてみます。 蘇我麻智 は、古語拾遺によれば、雄略天皇代、増大する諸国からの貢物に対応すべく、新たに大蔵が興され、麻智が三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)を管理したといいます。つまり、蘇我氏は、5世紀後半には既に朝廷財政を統括していたと思われます。 当時の蘇我氏が王権のクラや財政と関係していたことは、古事記に見える宗賀之倉王(そがのくらのみこ、日本書紀では倉皇子)の存在からも推察できます。 古語拾遺に見える蘇我麻智の伝承は、蔵関係の伝承を語ることから、6・7世紀における蘇我氏の朝廷のクラ管掌という史実を遡らせ、蘇我氏の中でもクラを管掌した蘇我倉氏や、その末裔である石川氏によって作られた伝承であり、秦氏や蘇我倉山田石川麻呂(蘇我倉氏)の家伝に基づいて造作された可能性も指摘されています。 学界で最も重視されている説としては、渡来系氏族である秦氏・漢氏との強固なネットワークです。 5〜6世紀の財政・工業・土木・外交の実務は、秦氏・漢氏などの渡来系氏族が担っています
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蘇我氏の真実(2):蘇我 満智(そがのまち)
第913話 前回: 蘇我氏の真実(1) では蘇我氏の具体的な活動が記述されるのは6世紀中頃の蘇我稲目からで、それ以前に関しては、全く文献がありません。と書きました。 しかし、蘇我 満智(そがの まち)がいました。蘇我石川宿禰の子で、武内宿禰の孫にあた。蘇我韓子の父、蘇我稲目の曾祖父です。 蘇我 満智は、 履中天皇→反正天皇→允恭天皇→安康天皇→雄略天皇に仕えたとされています。 履中天皇、反正天皇、允恭天皇、安康天皇、雄略天皇が台与であることはすでに書いています。 第583話: 履中天皇(第17代)~大江 第584話: 反正天皇(第18代)は、、、 第585話: 允恭天皇(19代)~清寧天皇(第22代) この図式は、武内宿祢が 景行天皇=成務天皇=仲哀天皇=応神天皇=仁徳天皇に仕えたというのと同じです。景行天皇=成務天皇=仲哀天皇=応神天皇=仁徳天皇は台与です。 第578話: 景行天皇(第12代)と神夏磯姫 第579話: 印南別嬢(いなみのわきいらつめ) 第580話: 仲哀天皇(第14代)とトヨ(豊) *武内宿祢 ~ 第502話:
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2 日前読了時間: 5分


蘇我氏の真実(1)
第912話 蘇我氏は謎の多い一族です。このブログは、邪馬台国を追及するブログです。もう900回を超えましたが、一度も蘇我氏については書いていないのです。なぜかというと蘇我氏に関しては、信頼できる資料がないからです。蘇我氏は、古事記、日本書紀が作り出した架空の氏族ではないのかと思い始めています。 古事記や日本書紀では、蘇我氏は武内宿禰を祖としています。武内宿祢は、このブログで何度も書いているように、 スサノオ(津田の王 ) = ウツシコオ(内色許男命) =難升米 です。~ 第502話: 武内宿禰はウツシコオ(2) 蘇我氏の具体的な活動が記述されるのは6世紀中頃の蘇我稲目からで、それ以前に関しては 、全く文献がありません。大阪府の石川流域、南河内郡河南町一須賀、葛城県(高市郡)、蘇我里(奈良県橿原市曾我町)を本拠としていた土着豪族であったとされています。 蘇我氏は大王家(皇族)との婚姻関係を通じて強大化した氏族とされ、蘇我氏と深く結びついた皇族(古代王族)には、下記のような人たちがいます。 🌸 推古天皇~ 蘇我馬子と協力して政治改革を進めた。~ 第
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清水寺と坂上田村麻呂
第911話 坂上田村麻呂は台与(2) 清水寺については、 第863話: 清水寺と地主神社 ですでに書いたのですが、前回: 呉服神社と坂上氏・阿智氏 を書いた際に、坂上田村麻呂の坂上氏が有名な神社の創建に関わっていると書きました。今回は、坂上田村麻呂と清水寺の関係を追及してみます。 宝亀11年(780年)に鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂は、修行中の賢心という僧侶に出会います。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのですが、延鎮より殺生の罪を説かれて観音に帰依*し、観音像を祀るために自邸を本堂として寄進し、音羽の滝の清らかさにちなんで清水寺と名付けます。 *殺生の罪を説かれて観音に帰依というのは、 第856話: 行願寺と狩人 で、書いたように、 狩猟者改心のモチーフです。 狩猟者改心のモチーフの文化的意義は、殺生から慈悲への転換は、仏教の教義において、殺生は戒律に反する行為で、狩猟者が改心することで、仏教的価値観への転向が強調されます。とされていますが、 第557話: 御頭祭:鹿と神社...
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呉服神社と坂上氏・阿智氏
第910話 坂上田村麻呂は台与(1) 呉服神社(くれはじんじゃ)は、大阪府池田市室町にあります。 祭神は 、呉服大明神と仁徳天皇*で、仁徳天皇*の御代に没した呉服の祖神を祀っています。 呉服大明神 の遺体をおなじ池田市にある伊居太神社の梅室に、形見の三面神鏡をこの呉服神社の境内の姫室に納め、神祠を建てて 呉服神社 としたされています。「呉服」という言葉の由来は、この神社にあるとされています。 呉服大神は、日本最初機織裁縫の祖神です。 応神天皇*の時代、機織・縫製技術を得るために呉の国に派遣された阿知使主*と都加使主父子が、呉王に乞い連れ帰った呉服媛(くれはとりのひめ)・穴織媛(あやはとりのひめ)・兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)の4姉妹のうち、池田の地に迎えられた呉服・穴織姉妹の姉、呉服媛を猪名の港、現在の猪名川に架かる呉服橋と絹延橋の間にある唐船が淵に機殿(はたどの)を建てて迎えたとされています。 * 仁徳天皇は台与です。~ 第582話: 仁徳天皇(第16代) *応神天皇も台与です。~ 第581話: 応神天皇(第15代)は台 与 * 阿知使主~
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5 日前読了時間: 5分


真舌媛:孝霊天皇妃は台与
第909話 三島は、私が邪馬台国とする地です。 私は三島郡三島町(現:大阪府茨木市・摂津市)の生まれです。 三島には「味舌」というところがあります。 孝霊天皇の后は、 大目の娘である細媛命で、別名は真舌媛です。日本書紀の孝霊紀に、后について、「一に云はく、 十市県主 等が祖が女:真舌媛(姫)といふ」とあります。 中世の味舌庄は、甘舌・真舌とも書かれ、淀川下流の有力な分流の1つである三国川に面し、対岸の地、鯵生(あじふ)野は、住吉大社神代記の「長柄船瀬本紀」にみえる、遣唐使船に荷物が積み込まれたという、長柄船瀬(港津)の地に比定されています。 味舌姫の父とされる十市県主の祖の「大目」です。三島から淀川をほんの少し下った所に「大日」という地名があります。大阪府守口市です。 第115話: 菊理媛神~大目は大日(守口市) では「大目」は「大日」のことであるとしました。 守口市の大日の近くには、 高瀬の渡し がありました。この付近は、淀川と大和川の水路が交わる要地で、出土した流水文様の弥生式土器は西暦紀元前後の土器と推定され、約二千年もの昔から祭祀が行われ
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6 日前読了時間: 6分


日田(大分県)の伝説を検証する
第908話 前回: 石井源太夫・鳥羽宿禰は磐井=継体天皇 で書いた鳥羽宿禰=石井源太夫は、日田の国造です。 大分県に田島という地名があります。大分県日田市田島(〒877-0025) この田島の地名の由来は、豊西記によると、「石井源太夫高明公、当郡に下向き、来来里の着御あり。これによって村名としその後大原に館し昿田を開き」とあり、また豊後国志には鳥羽の宿禰が「日田国造となり刃連に住まい常に庶民に会す。以て耕の事を教え常に同居し、名づけて会所宮というのは是なり。」とあり、日田で初めて水田が開かれたことから田始播=田島と呼ばれるようになったとされています。 このブログでは、第486話: hidemaru3375.com/post/神武東征と稲作文化 では、稲作の伝播と神武東征関連付けました。 台与=ヤマトトモモソは農地の開拓を行ってきたことはこのブログで何度も述べています。 ヤマトトモモソ姫(=台与)は、農業・水路・文化の興隆を成したとされています。~ 倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトモモソ姫)はトヨ?? 台与は食物の神です。~ 第435話: 大宜都比売(お
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2025年12月26日読了時間: 5分


石井源太夫・鳥羽宿禰は磐井=継体天皇
第907話 熊本県小国市「わいた温泉郷」の一つ「岳の湯温泉」にほど近い、杉木立の中に熱田神宮水源というところがあります。「中尾熱田神宮」の境内下で、鳥居へ上る階段をはさんで左右に池があり、その2カ所から清らかな水が湧き出している。かつては農作物に恵みをもたらす「神の水」と云われる水源です。ここの水は温泉郷が近いためか、水は22~28度と極めて高いのが特徴で、この水が水田に引かれていることが熱田の語源と推測されています。 熱田とは、熱田神宮の熱田です。名古屋市熱田区の熱田です。 大分県日田市にある石井神社があり、この神社の由来は、日田神社蒐集録によると、石井源太夫(いしいげんだゆう)いう人物が、八幡宮に祈願して、剣を大空に向かって投げ、落ちたところを社地と定めたといいます。また、この剣を投げ社地を定めた石井源太夫は尾張国の蓬莱島に宮地が有り、そこに祭られる尾張国造小 豊 命であるとも有ります。尾張国(愛知県)の熱田神宮、境内摂社の上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)は通称源太夫社と呼ばれ、祭神は、先代旧事本紀に尾張国造と記される乎止與命*です。...
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2025年12月25日読了時間: 5分


伊予湯岡碑:聖徳太子の嘘(2)
第906話 #道後温泉 #別府温泉 伊予湯岡碑(伊予道後温湯碑)は、かつて愛媛県松山市の道後温泉に存在したとされる飛鳥時代の碑文です。現在では所在は失われてしまっていますが、碑文は後世の引用史料によって知られており、聖徳太子の実在性を示す文書とされていました。原碑は、天武天皇13年(684年)10月の白鳳地震で埋もれたと推測する説があります。 法興六年十月、歳在丙辰、我 法王大王 与恵慈法師及 葛城臣 、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。~ 法興6年10月 我が法王大王が慧慈法師及び葛城臣とともに、伊予の村に遊んで、温泉を見て、その妙験に感嘆して碑文を作った。 惟夫、日月照於上而不私。神井出於下無不給。万機所以妙応、百姓所以潜扇。若乃照給無偏私、何異于寿国。随華台而開合、沐神井而瘳疹。詎舛于落花池而化羽。窺望山岳之巖崿、反冀平子之能往。椿樹相廕而穹窿、実想五百之張蓋。臨朝啼鳥而戯哢、何暁乱音之聒耳。丹花巻葉而映照、玉菓弥葩以垂井。経過其下、可以優遊、豈悟洪灌霄庭意歟。 才拙、実慚七歩。後之君子、幸無蚩咲也。...
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2025年12月24日読了時間: 7分


上宮記・薬師如来光背銘:聖徳太子の嘘
第905話 上宮記は、7世紀頃に成立したと推定される日本の歴史書です。日本書紀や古事記よりも成立が古いとされています。釈日本紀:巻十三に引用された継体天皇の出自系譜は、古事記・日本書紀の欠を補う史料として研究上の価値が高いとされていますが、その内容は疑わしいのです。「上宮」とは厩戸皇子が幼少・青年期を過ごした宮(奈良県桜井市)のことです。 上宮記の内容の信憑性を疑う研究者は多数です。 ・関根淳氏は、上宮記は山背大兄王が自らの権威づけのために聖徳太子を賞賛した史書を作成させたものとし、その注は太子信仰を生み出し続けた法隆寺の僧侶が書いたものであると推定しています。 ・井上光貞氏は、上宮記は七世紀の宮廷での創作ではないかとしておられます。 ・山尾幸久氏は、上宮記逸文の原史料は、推古朝まで遡るのは難しく七世紀末か八世紀初めに書かれたと見ておられます。 ・堀大介氏は、上宮記は古事記、日本書紀の、あとから書かれたのではないかと考えておられます。 ・井上光貞氏、山尾幸久氏は、七世紀から八世紀にかけて造作されたものと指摘しておられます。 ・堀大介氏は、上宮記の
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2025年12月23日読了時間: 5分


丸岡と継体天皇~福井県坂井市
第904話 國神神社(くにがみじんじゃ)は、福井県坂井市丸岡町にあります。丸岡城の近くです。 國神(くにがみ)神社は、男大迹王(おほどのきみ:後の継体天皇)と倭媛(やまとひめ)の皇子である椀子皇子(まるこのおうじ)を祭神として祀っています。社伝では、椀子皇子が武烈天皇8年に、磨留古乎加(まるこのおか:丸岡城がある丘)に 降誕 され、その胞衣(えな)を埋めて神明社としたのが創建と伝えられていて、磨留古乎加という地名は皇子の名前と丸岡の地名の由来となっています。 このブログでは、男大迹王(継体天皇)は台与としています。 継体天皇はトヨ(台与)??! 継体天皇は台与2~大々杼郷:楯原神社 継体天皇は台与3~田井(寝屋川市) * 胞衣 にくるまれて 降誕 したのは、瓊瓊杵尊(ニニギ~台与)です。 ~ 第436話: 瓊瓊杵尊:ニニギは台与 日本書紀によれば、近江国高島郡三尾に住んでいた 彦主人王* (ひこうしおう)は、越の坂名井(さかない)から振媛(ふりひめ)を妻として迎え、振媛は、後の継体天皇である男大迹王(おおどおう)を生みましたが、まもなくし
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2025年12月22日読了時間: 5分


鹿島流し:タケミカヅチ
第903話 鹿島送りは、東日本の各地にみられる人形送りの民俗で、秋田県では虫送りの行事が「鹿島送り」、「鹿島流し」と呼ばれています。春から夏にかけて、生活に害をなすものを追い出す伝統行事の1つです。一般的に稲藁でできた鹿島人形を鹿島舟に乗せ、町内を回ってお祓いをしてから川に流すというものです。伝統行事としては害虫を駆除し豊作を祈願する虫送りに分類され、秋田県内では6月第4週~9月第2週くらいの期間に男鹿市、秋田市、大仙市、横手市、由利本荘市などで行われます。 鹿島様とは稲魂(うかみのたま)が宿り人々の生命力を高める霊力の備わる稲藁で作られた人型の道祖神で、秋田県内では湯沢市に6体、横手市に7体、美郷町に3体、仙北市に3体、大仙市に1体がそれぞれ設置されています。背の高さは3m~4mと巨大で、道祖神*の役割りもあるようです。 顔が稲藁で作られているものは秋田県南部に多く、顔が木で作られているものは秋田県中部、秋田県南部両方に見られます。 また大きな草鞋を吊るしたもの、絵馬のように仁王面だけものなど鹿島様はさまざまな姿で作られているのです。...
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2025年12月21日読了時間: 5分


女神山(めがみやま) の小手姫は、、
第902話 NHKのBSで日本百低山という番組があります。最近見たのは、女神山です。 女神山は、福島県伊達郡川俣町 にあります。女神山の「女神」とは、崇峻天皇の妃「小手姫」のことです。 その小手姫とは、第三十二代崇峻天皇の妃だった女性です。夫が蘇我馬子によって殺され、聖徳太子が推すい古こ天皇の摂政となったとき、彼女は馬子の手を逃れて東北に逃げた息子を追って当地にやってきたといいます。小手姫は、当地で生涯を終えるが、大きな宝をもたらしました。小手姫は小手郷と呼ばれていた川俣町、月舘町に機織技術を伝えたのです。 女神山には、いまも山桑の木がみられ、そのうちの一本は地元の風習と結び付いています。この桑の芽を少しだけ摘んできて、刻んだものを蚕のエサに混ぜると、良質のマユがとれるのだといいます。 私には、 伊達郡川俣町という地名だけで 女神山の女神=小手姫が台代だということがわかります。 川俣(かわまた)は大阪府東大阪市の地名です。 〒577-0063 この 河俣毘売がだということは、 第496話: 河俣毘売(かわまたびめ)~放出(はなてん) で書きました
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2025年12月20日読了時間: 5分


弘法大師(空海)の伝説の真相
第901話 前回: 川崎大師:大師は太子!? では弘法大師のことを書きました。川崎大師のある川崎市には、弘法松公園(川崎市麻生区百合丘2丁目)があります。 弘法大師が杖を突いて松を生やしたとされ場所です。 かつて弘法大師がこの地を訪れ、百の谷があれば寺を建立しようとしたが、谷が九十九しかなかったため、これを断念し、その代わりにマツを植えたのが始まりとされています。やがて、この松が成長し、「弘法松」と呼ばれるようになります。 弘法大師(空海)の伝説は近畿以外にも全国に広がっており、特に四国、中国地方、関東・東北に数多く残されています。代表的なのは「水を湧かせる」「温泉を開く」「土地を守る」といった奇跡譚です。 日本の各地には、約5000の弘法大師伝説があるとされ、そのうち「弘法水」は約1500か所で、東日本にも多数の伝説が残ることが指摘されています。 これらは「実際に行った証拠」ではなく、信仰の広がりを示す象徴的物語と考えられています。 弘法大師(空海)の地元にも、 満濃池改修の伝説 があります。 弘法大師が実際に関わったとされる満濃池の改修工
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2025年12月19日読了時間: 5分


川崎大師:大師は太子!?
第900話 川崎大師:正式には、平間寺(へいけんじ)は、神奈川県川崎市川崎区にあります。1128年(大治3年)も建立です。尊賢(そんけん)を開山、平間兼乗(ひらまかねのり)を開基としています。 この川崎大師(平間寺)にも建立についての伝説があります。 平間兼乗は海中へ網を投げ入れたところ、弘法大師の木像を引き揚げた。兼乗は木像を洗い清め、厄年である数えの42歳であったため厄除けを願って、花を捧げて供養していた。やがて、近くに小堂を構えた。諸国遊化の途中に訪れた高野山の尊賢上人は、弘法大師の木像にまつわる話を聞き、兼乗と力をあわせ、1128年(大治3年)に平間寺を建立した。 そのため、寺院の本尊として弘法大師を祀る珍しい形となっています。 この創建伝説に似た話を、以前も書いたことがあります。 第747話: 浅草と枚方:茨田堤:武蔵の人・強頸 では、「 推古天皇36年、隅田川河口で漁をしていた兄弟漁師・桧前浜成命・桧前竹成命が網に魚ではなく人形の像(聖観世音像)を釣り上げます。兄弟がその不思議を「物知り」と呼ばれた土師真中知命に相談すると、聖観世音菩
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2025年12月18日読了時間: 5分


宇佐氏と辛嶋氏~宇佐八幡宮
第899話 第895話: 宇治神社と宇治上神社 で、宇治神社は、宇治は菟道からきたのであり、それは兎(ウサギ)から来たと公式に説明されています。 そして、大分県にある宇佐神宮の宇佐も兎であるとされています。 ~宇佐(菟狭)氏の末裔で、戦前まで宇佐八幡宮(宇佐神宮:大分県)の宮司を務めた家のご子息である宇佐公康氏は、菟狭は 兎 (ウサギ)から来た氏族名だと述べておられます。 宇佐氏は菟狭津彦命を祖とし、宇佐八幡宮の神主家で、古くは宇佐国造家でした。欽明天皇の時代に諸石が八幡宮を勧請したのにはじまり、元明天皇の時、沙門法蓮が医術にすぐれた功によって、一族とともに宇佐公の姓を賜わったといいます。 宇佐家伝承によると、宇佐家のウサとは月のウサギから来ています。宇佐家の一族はかつて菟狭族と呼ばれ、月神を信仰していました。月の満ち欠けや昼夜の別を目安に、月読(ツキヨミ)*や暦(コヨミ)の知能を持った氏族で、肉眼で見える満月の表面の濃淡がウサギに見える事から、月をウサギ神として信仰し菟狭(宇佐)氏と名乗ったと、「古伝が伝える古代史」できっちりと説明されています
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2025年12月17日読了時間: 6分


ツキヨミの正体(2):壱岐・対馬
第898話 前回: 月読命(ツクヨミ)の正体(1):秦氏 では、「月神(ツキヨミ)は、通説では元々 壱岐国の式内社である月読神社 から分祠されたものであるとされています。山城国風土記:逸文によれば、月読尊が保食神のもとを訪れた際、その地にあった桂の木に憑りついたといい、「桂」の地名はこれに始まるという説話が記されている。」と書きました。桂は京都府の地名( 京都市西京区桂上野) です。 ~:第338話: hidemaru3375.com/post/月読命(ツクヨミノミコト)-京都市西京区桂 北條勝貴(上智大学文学部史学科教授)は、「壱岐・対馬の日神・月神が密接な関係にあることは明らかで、 木嶋社が元来対馬氏によって奉祀 されていたのか、それとも尾張氏*系の氏族によって奉祀されていたのかは不明であるが、日神を奉祀する木島坐天照御魂神社は、 日月の両信仰が、ある時期に玄界灘から畿内地方へともに移植され、両社もそれらと軌を一にして創建されたものではないか」とされておられます。 *尾張氏の祖は台与です。~第409話: 尾張氏と草薙剣 * 木島坐天照御魂神社
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2025年12月16日読了時間: 7分


月読命(ツクヨミ)の正体(1):秦氏
第897話 小川月神社は、京都府亀岡市馬路町にあります。祭神は、月読命(つくよみのみこと)で 明治以前には「月読(神)社」を称し、現在でも「つきよみさん」と呼ばれて親しまれています。 当社は大堰川*の左岸(東側)に鎮座しているが、大堰川を挟んだ西方、千代川町に小川という字名があり、和名抄に見える「桑田郡*小川郷」の遺称地であるとされています。 * 大堰川は、 保津川下りで知られており、 大堰川(おおいがわ)、保津川と同じ川です。 第826話: 保津川と葛野大堰 で書いたように、秦氏と関係の深い川です。 大堰川沿いには他にも松尾大社系の神社があるので、下流の葛野坐月読神社(松尾大社摂社)との関係が指摘されています。大堰川を遡る形で秦氏による開発が進み、それにともなって創祀されたと考えられている。 *桑田~ 第508話: 桑田皇女と奈具遺跡 では、 湖であった丹波地方の開拓のため来た大山咋神が、保津峡の開削を始めたと伝えられています。~ 第339話: 丹の湖~亀岡盆地は湖だった!! 第425話: 秦氏と大山咋神 で書いたように 大山咋神は秦氏の神です
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2025年12月15日読了時間: 6分


八百比丘尼と「おしら様」
第896話 京都市右京区太秦にある木島坐天照御魂神社については、第499話: 木嶋坐天照御魂神社と日神の託宣 で書きましたが、この木島坐天照御魂神社が蚕ノ社と呼ばれ、養蚕・織物に関わる信仰が伝えられていることには触れませんでした。秦氏が養蚕・機織りの技術をもたらしたとされることから、社名や由来が「蚕」に結びつけられています。 木島坐天照御魂神社の本殿の東側には蚕養神社(こかいじんじゃ、東本殿)が鎮座しています。 日本書紀や新撰姓氏録では、秦氏が蚕や絹を税として献上したことが地名や氏族名の由来とされる説が書かれています。養蚕と太陽信仰桑の木や蚕が太陽信仰と結びつけられ、中国の「扶桑」伝承との関連が示されています。太陽が桑の木から昇るという観念が、養蚕神社が天照御魂神社の摂社である理由とされています。 木島坐天照御魂神社の養蚕神が八百比丘尼や「おしら様」と関連付ける説があります。 八百比丘尼の長寿伝説が養蚕信仰と結びつく可能性に触れています。蚕は繭を作り、死と再生を繰り返す存在であるため、「不老長寿」「再生」の象徴とされ、八百比丘尼の不老伝説と重ねら
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2025年12月14日読了時間: 5分
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