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八咫烏の由来

更新日:4月22日

第293話~建角身命は何故カラスなのか?


賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)、別名は八咫烏、八咫烏鴨武角身命(やたからすかもたけつのみのみこと)。山城の賀茂氏(賀茂県主)や葛城国造の始祖であり、賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神です。神武東征の際、八咫烏に化身して神武天皇を先導したとされています。


なぜ建角身命(タケツノミ)はカラスなのでしょうか。古代中国では三足烏(さんそくう)の伝説・神話はすでに二千以上以上前の淮南子(呉御: えなんじ、漢音: わいなんし)に「日のなかに※烏(そんう)がいる」とあり、後漢代末期の 高誘が「※」は「蹲」で、そんうは三足烏である」と注を付しています。また「昔、広々とした東海のほとりに扶桑の神樹があり、十匹の三足烏が住んでいた」とあります。三足烏とは日精のことである。また、日車〔日を乗せる車〕の御者であるとも伝えられています。


三足烏(さんそくう)は周代に登場し、漢代にピークとなり、その後あっさりと中国の歴史から消え去ってしまいます。そしてそれと軌を合わせるかのように、日本に出現します。

そして同時期に日本に出現したのが雅楽です。


雅楽の始祖は、神八井耳命のとされその後裔とされる9世紀の多自然麿、その子孫は地下(じげ)の楽人として代々宮廷に仕えています。雅楽も元は周王朝の宮廷音楽です。雅楽は日本にだけ完全な形で残っています。なぜ日本にあり、中国では消滅したのでしょうか。

その文化の担い手が中国から日本に移住したからです。


このブログでは、すでに第231話神八井耳命は三毛入野 神八井耳命は実在した人物三毛入野をモデルにしていると書きました。神八井耳命は実在した人物で多氏の祖です。多氏のうち、畿内の本流一族は大和国十市郡飫富郷に住んでいたとされていますが、近畿にとはトミが付く地名が何か所かあります。奈良県登美、奈良県雄などです。三毛入野は長脛彦です。長脛彦はた登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)、登美毘古(とみびこ)とも表記されます。


長脛彦も呉の勝(スグリ)の一族で紀伊の国(和歌山)の名草の郡の太田の村から、摂津の国の三島の賀美の太田の村に移ってきたのです。三島には摂津富田~登美の里 という地名が今でもあり、そこに定住していたと思われます。第48話:太田市と遺跡 ~呉の勝


神八井耳命=三毛入野=長脛彦=ウツシコオです。そしてウツシコオは建角身命(タケツノミ)です。第231話:神八井耳命は三毛入野 第280話:建角身命もウツシコオ

雅楽は八咫烏の神話とともに日本にやって来たのです。神八井耳命=三毛入野=長脛彦=ウツシコオです。そしてウツシコオは建角身命(タケツノミ)です。

第275話:事代主もウツシコオ?  第274話:八咫烏もウツシコオ

神八井耳命は多氏です。第291話:多氏と長脛彦


そして多氏は第271話:徐福伝説と「呉の勝」で書いたように徐福の一族だったかもしれません。



          {参考文献}戸矢 学 ニギハヤヒと先代旧事本紀


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。





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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
23 Nis
5 üzerinden 5 yıldız

蛭子 (昼子)。 イザナキ夫婦の第一子。ヒルコは斎名と思われる。別名:ワカ姫、ワカヒルメ、シタテル姫、タカテル姫、歳徳神、年の恵みの大御守、御歳神、ニフの尊。

ツクバのイサ宮で生まれる。昼に生まれたのでヒルコ。3歳になる年、父は42歳・母33歳の陽陰の節に当たり、その汚穢・隈が子に障るというのでイワクス船に乗せて流される。カナサキ夫妻に拾われ、西殿で育てられる。

アチヒコ(オモイカネ) と結婚し、タヂカラヲを生む。ヤスカワアチヒコと共にオシホミミの守役を務める。 ワカ歌と八雲琴の名手。 各地の生田(イクタ)神社に、稚日女尊(ワカヒルメ) の名で祭られる。タマツ宮で最期を迎え、ヒロタの地に葬られたもよう。  

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
20 Nis
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安寧天皇はウツシコオ? (hidemaru3375.com)

安寧天皇は河内青玉繋!? (hidemaru3375.com)

日本語 やまとことば


鴨王

  • 妻:日向賀牟度美良姫(ひむかのかむとみらひめ)[3]

  • 第1子健飯勝(たけいいかつ の みこと/たけいいかち の みこと)[3] 三輪氏・賀茂氏の祖。

  • 第2子:渟中底姫命(ぬなそこひめ の みこと)[3] 安寧天皇(第3代天皇)の皇后で、懿徳天皇(第4代天皇)などの母。


『先代旧事本紀』

三世孫 天日方奇日方命 亦名 阿田都久志尼命 此命娶日向賀牟度美良姫 生一男一女 兒 健飯勝命 妹 渟中底姬命 此命 片鹽浮穴宮天皇 安寧 片鹽浮穴宮 或本坐輕地曲峽宮 立為皇后 誕生四兒 即 大日本根子彥耜友天 懿德 次 常津命 次 磯城津彥命 次 手研彥奇友背命也」とある。天日方奇日方命[1]の娘。


訳して行くと 『三世孫て゛ある天日方奇日方命・またの名阿田の久志尼命は、妻の日向の賀牟度美良?と の間に子供か゛一男一女か゛生まれた、子を 健飯勝命 妹は 渟中底?命て゛ある。この命は片鹽 浮穴宮天皇(安寧) 片鹽浮穴宮(別名は記述されす゛) 成本に住まいそこは輕地曲峽宮と言 う。皇后に立てられ4児か゛誕生したすなわち大日本根子?耜友天 懿德 次 常津命 次 磯城 津?命 次 手研?奇友背命た゛。』


この文章をよく見ると、


「健飯勝命は片鹽浮穴宮天皇て゛安 寧と言う。渟中底?命は成本の軽地曲狭宮に住んて゛いた。」


1)子供に安寧自身か゛記 述されたこと、


2)渟中底?命の母は日向賀牟度美良?た゛と記述された


1) 三世孫て゛ある天日方奇日方命・またの名阿田の久志尼命、この命には妻の日向賀牟度美良?との間に子供か゛一男一女か゛生まれ、子を 健飯勝命 妹は 渟中底?命て゛ある。


2) この命は片鹽浮穴宮天皇(安寧) と 片鹽浮穴宮


3) 片鹽浮穴宮は 成本に住まいそこは輕地曲峽宮と言う。皇后に立てられ4児か゛誕生し大日本根子?耜友天 懿德 次 常津命 次 磯城津?命 次 手研?奇友背命た゛。


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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
20 Nis
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国内で初めて完全な形の太鼓形埴輪(はにわ)が見つかった奈良県田原本町の宮古平塚古墳(6世紀前半、一辺20メートルの方墳)とヤマト王権をテーマにした唐古・鍵考古学ミュージアム(同町阪手)の企画展が、20日から開かれる。太鼓形埴輪は、真の継体天皇陵といわれる大阪府高槻市の今城塚古墳(6世紀前半、墳丘長180メートルの前方後円墳)でも破片が出土したことから両古墳は密接な関係があるとされ、埴輪を通じて当時の歴史的背景に迫る。5月26日まで。


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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
19 Nis
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賀茂建角身命は神魂命(かみむすびのみこと)の孫であり、


と言い、手研耳命を射殺す役目を兄に与えた。二人は窨(むろ)に進入し、神渟名川耳尊はその戸を突き開けた。しかし神八井耳命は手脚が戦慄し、矢をいることができなかった。この時神渟名川耳尊は兄の所持していた弓矢を掣(ひ)き取り、手研耳命を射た。一発目は胸に中(あ)たり、二発目は背に中たってついに殺した。

神八井耳命ははじて神渟名川耳尊にしたがって皇位を譲り、

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
19 Nis
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