top of page
  • tootake

卑弥呼は萬幡豊秋津師比売命!!

更新日:6 日前

第72話~萬幡豊秋津師比売命(ヨロズ・ハタ・トヨ・アキツ・シ姫:古事記)


日本書紀本文では栲幡千千姫、一書では栲幡千千媛萬媛命

古事記および日本書紀では高皇産霊神(高木神:タカミムスビ=ウツシコオ)の娘

日本書紀第一の一書では思兼命(ウツシコオ)の妹


前号でも書いたように、243年に難升米が魏に行った時、献上物のお礼として絳地交龍(コウジコウリュウ)の錦5匹、コウジスウゾクのケイ(けおりもの)10張、センコウ50匹、紺青50匹、紺地句文の錦3匹、細班華の(けおりもの)5張、白絹50匹・金8両・五尺の刀を2ふり・銅鏡100枚、真珠、鉛丹を各50斤の莫大な下賜品を貰いました。


私が注目したのは、銅鏡ではなくけおりもの(毛織物)の数々です。これが萬幡豊(ヨロズ・ハタ)です。魏から莫大なお宝を貰ったのは、萬幡豊秋津師比売命だったのです。

卑弥呼は姫御子で本来は特定の個人を指すのではないのです。魏の役人が個人名と勘違いしただけです。


萬幡豊秋津師比売命という名前を検討してみますと、「萬幡」は「多くの布帛」、「豊」は「多く」、「秋津」は「蜻蛉の羽のように薄い上質なもの」、「師」は「技師」(織女)と考えられます。「多くの布帛で、多くの蜻蛉の羽のように薄い上質なものを作る織女」と考えられます。


栲幡千千姫の「栲」は楮の繊維または白膠木、「ハタ」は「機(はた)」、「チヂ」は縮むの意とも、たくさんあるの意ともいい、前者であれば織地が縮んだ色鮮やかで美しい上質の織物のこととなり、後者であれば機織がさかんな様子を表します。いずれにしても機織や織物に関係のある名前ということになります。高天原にも織姫がいましたね。


萬幡豊秋津師比売命は、ウツシコオ(難升米)の姉のウツシコメ(欝色謎命)です。ウツシコメは孝元天皇の后です。魏からのお宝を貰ってもおかしくない人物です。ということは、卑弥呼はこの人で決定です。


天照御魂はいつもに思金(思兼:タカミムスビ:ウツシコオ)と行動していました。記紀では、天照大神とタカミムスビ(高木神:ウツシコオ)が、並んで登場します。


「天照大神は思兼神の妹・万幡豊秋津媛命を正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊に娶せた」(古事記)。これを解釈すると、天照大神(この場合ウツシコオ)は、思兼神の妹・万幡豊秋津媛命(ウツシコオの姉のウツシコメ)を正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(この場合は孝元天皇)と考えられます。


ここで問題となるのが、魏志倭人伝です。

「一女子を共に立て王と為す。名は卑弥呼といふ。鬼道に事へ、よく衆を惑はす。年、すでに長大にして、夫婿なし。男弟有りて国を治むるを佐く。」


「その国は元は男子を王としていたが、居住して七、八十年で、倭国は乱れ、互いに攻撃しあって年を経た。そこで、一女子を共に立てて王と為した。名は卑弥呼という。鬼道の祀りを行い人々をうまく惑わせた。非常に高齢で、夫はいないが、弟がいて国を治めるのを助けている。」


ウツシコメはの夫である孝元天皇は、240年頃に亡くなっています。「一女子を共に立て王と為す。」は、すぐさま次の天皇を立てず、ウツシコメが天皇の代理としていたということです。ということはこの時点でウツシコメには夫がいなかった筈です。

当時は、40歳くらいになれば「年、すでに長大」です。「男弟有りて国を治むるを佐く。」男弟はむろんウツシコオです。しかもこれらのことを魏の役人に説明したのは、魏の言葉を自在に喋れるウツシコオです。文字も書けたはずです。あることないこと?説明できる立場にいたのは、ウツシコオしかいません。


  自為王以來少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處

  宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛


王となってから、朝見のできた者はわずかである。侍女千人がいて仕え、ただ男子一人がいて、飲食物を運んだり言葉を伝えたりするため、女王の住んでいる所へ出入りしている。宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、常に武器を持った人が守衛している。


前にも書きましたが、侍女千人はあり得ません。古今東西を見ても「そんな奴おらんやろ」と言わざるを得ません。


卑弥呼の墓については、枚方市の高陵小学校(現在の私の住居の近く)から連想されることから高い塚:タカツカ→鷹塚、鷹塚山でしょう。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

<卑弥呼=天照大神説>フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


中華の史書に残るほどの人物であれば、日本でも特別の存在として記憶に残るはずで、日本の史書でこれに匹敵する人物は天照大神(アマテラスオオミカミ)しかないとする説。

白鳥庫吉、和辻哲郎らに始まる。この場合、台与は天忍穂耳尊の后、万幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)とするのが普通であるが、異説もあり、石原洋三

郎の説では山幸彦の后豊玉姫とする。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


※そして卑弥呼が行っていたという鬼道とは




<追記> 卑弥呼は饒速日の后だった!!!


卑弥呼=ウツシコメであるなら、孝元天皇=饒速日、つまり饒速日(ニギハヤヒ)の后は

ウツシコメです。ウツシコメとウツシコオをは弟姉の関係で、そろってかなり頭がよく、知識が豊富だったと思われます。


そして饒速日(孝元天皇)が崩御した後は、この姉弟が物部のトップです。姉のウツシコメの方が弟のウツシコオよりも、地位が高いのです。なにせニギハヤヒの后なのですから。


私は、これまでウツシコオの陰謀などと書きまくってきましたが、ウツシコメの陰謀と書くべきだったのかもしれません。卑弥呼が邪馬台国(物部)のトップであったことは間違いなかったのです。



※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。。 

※これまでの記事はこちらです。


<邪馬台国の新常識>





閲覧数:184回2件のコメント

最新記事

すべて表示
bottom of page