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三島水門~全ての道は三島に通じる。

更新日:4月28日

第28話


以前のにも少し触れましたが、天の日鉾こと都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシヒト)は、日本海経由で敦賀に来たようです。

『日本書紀』には、仲哀天皇と神功皇后の越前笥飯宮(気比神宮)行幸のことが書かれています。

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アメノヒボコと仲哀天皇、天皇は皇后息長帯姫命と伴に越前笥飯宮(気比神宮)に行幸される。そして皇后を笥飯宮に置き、さらに南を巡狩されていた。この時偶然、熊襲が背いたのである。

天皇は使いを越前笥飯宮に遣わし、皇后に穴門(下関海峡)で会わんことを伝え穴門に至った。皇后は、越前角鹿より船に乗り北海を若狭(湾)の加佐・与佐の竹野海を経て、多遅麻国の 三島水門:ミシマミナト(豊岡市津居山) に入り、内川(円山川)を遡り、粟鹿大神・夜父大神に詣で給う。ついで出石川を遡り、伊豆志大神に詣でます。

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この話が本当なのかはさておいて、注目すべきは、三島水門:ミシマミナト(豊岡市津居山)といいう地名です。ミシマ・ミナトすなわち三島(御島)の港ということでしょう。

上記の丸山川、出石川も大和(邪馬台国)にとって重要な輸送ルートであったことが分かります。


古代に栄えた海上交易 いわゆる玉交易

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より引用

近代以前において、今以上に水上交通が大きな意味をもっていました。鉄道も自動車もないので、大量の物資の輸送は船に頼るほかありませんでした。道路が整備されても、荷馬車に積める量は限られるがゆえに、江戸時代にもっとも重要な物資であった米、酒、海産物などの輸送には、菱垣廻船、樽廻船などの帆船が用いられた。陸路の発達していない古代にあっては、人の往来にも船が用いられた。

そのため飛烏時代ごろまでの人にとっては、船で行き来できる北九州と朝鮮半島南端とのあいだは、北九州・大和間よりはるかに近く感じられた。

古代の物資の移動をみると、大和朝廷の全国統一以前に日本海航路がきわめて重要なはたらきをしていたことがわかる。日本は、島国で海上交通が容易なうえに、山で道をふさがれない限り海岸部の平野を用いた陸上交通も可能である。交通の大きな障害になる砂漠や高山地帯もない。このことが古代以来日本列島内の交流をさかんにした。そして、そこから日本は一つとする考えが生み出されてきたのであろう。引用ここまで

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・日本海→琵琶湖→巨椋池→山代川(淀川)

・亀岡→保津川・桂川→山城(代)川

・鍵・唐子遺跡(黒田宮)をつなぐ奈良盆地湖→長柄船瀬(港津)→味舌(マシタ:三島)

・河内湖→波速(なみはや:大阪湾)から瀬戸内海→吉備→筑紫(九州)


大和(邪馬台国)の物流輸送は完ぺきなものに思われます。



※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

 今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。 

※これまでの記事はこちらです。



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