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木津川は高速道路 ~山代

更新日:4月27日

第16話


娘が突然、月ヶ瀬に住むと言い出しました。それまで勤めていた某市の職員を辞めて、町起こしでの募集に応じたとかで、良く分からないのですが、決意は固いようでした。ということで、私は車で何回も月ヶ瀬を往復する羽目になりました。

国道24号を木津川に沿って走り、福寿園を目印に左折して163に入ります。そこで木津川も同じように曲がるので、ずっと木津川に沿って走っていることになります。途中、またまた気になる地名があります。祝園(ほふりその)、銭司、賀茂(加茂)、海住山寺、恭仁京跡、そして椿井大塚山古墳

実は木津川は当時の高速道路ともいうべき便利な川だったのです。木津川を舟(筏)で移動すればウツシコオの内里(男山)、淀川に入るとミマキ国(高槻、枚方)、三島(茨木市)まで歩かずに行けます。さらに淀川を下ると大阪湾(なみはや;浪速)です。木材で筏(いかだ)組んで物資を乗せ、目的地で筏を解体すれば筏は木材として使えます。


◎恭仁京跡

山背国相楽郡(現在の京都府木津川市加茂地区)正式名称は大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)

恭仁京を造営したのは、奈良の大仏で有名な聖武天皇です。遷都の3年前には、天然痘が大流行。人口の15%が亡くなったといわれるほどのパンデミックに追い討ちをかけたのが「藤原広嗣の乱」でした。ミマキ国が桜井の箸墓付近に移転したのとまったく同じです。

◎銭司:銅を司るといことは、銅銭を製造していたところです。ということはここらは銅が採掘されている所と思ってしまいますが、そうではありません。ここは銅の加工工場で銅は他の地区から運んできていたのです。少し離れたとこに玉川銅山ありますが分析するとそこの銅とも違うそうです。ということはこの場所は昔から銅の加工工場がこの地にあり、技術者がいたということです。



◎椿井大塚山古墳 京都府木津川市山城町

縄文時代からの漁具である銛、ヤス、釣針が出土し近くに船戸という地名があることから被葬者は船舶の管理者であり、津(港)の管掌者ではなかったかと推測されています。何人かの研究者は近くに祝園があるからか被葬者にタケハニヤスビコの名を挙げています。天皇(崇神)に討伐された敗者にしては古墳の規模が大きく副葬品も立派過ぎます。

私が教科書としている上垣内憲一先生の「謎の四世紀」では第八代:孝元(オホヤマトネコ・ヒコ・クニクル)の墓とされておられます。

タケハニヤスを祝園(ほふりその)で打ち取った大彦の父親です。

この古墳が重要とされているのは「邪馬台国の卑弥呼が魏から下賜された銅鏡ではないか?」と注目を集めてきた三角縁神獣鏡が多数発見されたからです。

しかし、これらの銅鏡は魏で作られたものでなく、日本で作られたものであるという説が1980年代に出されました。

いずれにせよ上垣内先生以外の学者・研究者はこの古墳は卑弥呼の邪馬台国時代の最高の権力者の墓としながらも邪馬台国国王の墳墓とは認められないというのです。理由は奈良盆地にないというだけです。


もうこうなったら言ってしまいましょう。山城国(山代:ヤマタイ)は邪馬台国だと。




※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

 今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。 

※これまでの記事はこちらです。



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