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ウツシコオは難升米ではなかった??

更新日:4月9日

第109話


卑弥呼が邪馬台国を治めていた時代、日本から魏に行った人物は難升米以外にも数人います。


・都市牛利(???=魏での表記のため読み方は不明)、239年(景初3年)、難升米の副使。

・伊聲耆(いせり?:大夫)、243年(正始4年)正使

・掖邪狗(ややこ?)、243年副使

・載斯烏越(???)、247年(正始8年)、邪馬台国が狗奴国との紛争を魏に訴えるために魏に赴く。


上記は魏での記録のため、信頼性は極めて高いものです。


によりますと、景初二年(景初三年、239年とされる)の遣使、難升米は「なしょめ」と読み、中臣氏(なかとみし)の梨迹臣(なしとみ)であるとされておられます。


梨迹臣命(なしとみのみこと)は、古代日本の豪族で中臣連の祖。梨富命、那志登美、梨津臣命(なしつおみのみこと)とも表記します。記紀に登場せず特に事績も知られていませんが、近江国風土記に掲載された余呉湖の羽衣伝説おいて、近江国伊香郡与胡郷の人である伊香刀美が、天女との間に生んだ二男二女の次男として登場しています。近江国式内社の乃彌神社の祭神とされ、合祀した乎彌神社において兄弟の臣知人命と共に祀られている。その他に意富布良神社にも配祀されてますので実在の人物と考えられます。


中臣氏は神武が大和朝廷を樹立する前からの臣下で、王権内の最古参の氏族です。

父親は、伊香津臣(いかつおみ)。滋賀県長浜市木之本伊香具神社(いかごじんじゃ)の祭神として祭られます。


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景初3年、梨迹臣と共に遣使になった都市牛利とは由碁理(ゆごり)である。

正始4年、掖邪狗と共に遣使した伊聲耆は「いせり」と読み中臣氏の伊世理(いぜり)である。伊世理は梨迹臣と兄弟であるが、異母兄弟と思われる。

同じく正始四年の遣使、掖邪狗を「わきやひこ」と読み稚押彦(わかおしひこ)とする。稚押彦は通称「わかひこ」と呼ばれていたと想像する。掖邪狗は「わかひこ」の音写。


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掖邪狗(えきやく)は、3世紀中ごろ弥生時代において実在したとされる人物及び官吏です。邪馬台国の大夫であり、正始4年(西暦243年)、卑弥呼の使者として魏(中国)に派遣され、率善中郎将の印綬を受け、卑弥呼死後の、壹與(とよ)政権下においても、帰国する魏の使者を送るため派遣されています。(ウイキペディア)


そして遣使に立った人たちでは正始8年の遣使、載斯烏越は(うつ・し・う・こ)と読み、物部氏の欝色雄(ウツシコオ)であると指摘されいます。遣使に立った人たち


私は、思金=ウツシコオ=難升米=大綜麻杵~オオヘソキ;ダイ(大:dai)ソウマキ → ナン(nan) ショウマイ → 難升米という説でここまで話を進めてきました。しかし載斯烏越=ウツシコオという説もありえます。”なしとみ”=”なしょめ(難升米)”の方がしっくりします。


私は、邪馬台国=ミマキ国という説を証明したいがために、難升米=ウツシコオとしたいのですが、載斯烏越=ウツシコオでも邪馬台国=ミマキ国の説は破綻しません。ウツシコオは内里(京都府八幡市内里:内はウチ)を拠点にしていたからです。かえって各事件の年代がはっきりしました。


245年(正始5年)「倭の難升米に黄色い軍旗を賜い、帯方郡に付託してそれを仮に授けた。」とあります。タケハニヤス彦が、反乱を起こしたのはこの翌年だとおもわれます。

247年(正始8年)に「載斯烏越(ウツシコオ)、邪馬台国が狗奴国との紛争を魏に訴えるために魏に赴く。」とあり、この翌年ウツシコオの陰謀で狗奴国の長脛彦を討ったと思わえれます。~内色許男命(ウツシコオ)最後の陰謀 ~長脛彦の最後 (hidemaru3375.com)


「正始八年(247)、王頎が帯方郡太守に着任した。倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素(※注:その官の狗古智卑狗=カワチ彦=長脛彦)と和せず、倭の載斯烏越(ウツシコオ)等を帯方郡に派遣して、互いに攻撃しあっている状態であることを説明した。(王頎は)塞曹掾史の張政等を派遣した。それにより詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄文をつくり、これを告げて諭した。」※注は、私の考えです。


梨迹臣命(なしとみのみこと)も邪馬台国の大夫(大臣)であるならミマキ国にいたと思われます。中臣氏の後裔である藤原氏は、三島の春日(〒567-0031)を拠点にしていました。藤原(中臣)鎌足の墓は、茨木市大字安威の阿武山古墳の発掘中に発見された埋葬人骨は藤原鎌足本人と思われています。発見された棺に入っていた冠帽が、当時の最高級の技術で作られ、さらに金糸を織り込んだものである事が判明。日本書紀によれば、鎌足は死の直前に天智天皇から最上の冠位「大織冠」と大臣の位を贈られたとされており、この冠帽がそれではないかと考えられています。

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<後記>

何故、記紀には藤原氏(中臣連)の祖とされる梨富命のことを書かなかったのでしょう。

中臣氏は天児屋命を始祖としており、神武とともに筑紫の日向から来たとされているため、近江(滋賀県)出身の梨富命のことを書くと神武東征の話が成り立たなくなると思ったのではないでしょうか。中臣氏(なかとみし)の梨迹臣(なしとみ)こと難升米(なしょめ)は、第103話で書いた卑弥呼(孝元天皇后)のお茶くみ係(パシリ)の天児屋命でしょうか?


ウズヒコ(鴨王)がヤマト(邪馬台国)の拠点の一つである内里にやって来たのは230年代で、年齢は30歳あたりです。このころは、まだ孝元朝では新参者です。パシリ(御側用人)の梨迹臣(なしとみ)よりも格下です。しかし、魏の言葉の読み書きができたので通訳として、同じく魏の言葉を話せる猿田彦とともに魏の言葉などしゃべれないと思われる梨迹臣(なしとみ)こと難升米(なしょめ)に官僚の一人として付いていったかもしれません。なお大夫の伊聲耆(いせり)は、日本を出た後、行方不明になっています。その後の魏志の記述がありません。洛陽に着く前に死亡したと思われます。




※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

 今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。 

※これまでの記事はこちらです。



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