top of page
  • tootake

神功皇后と五十猛

更新日:3月5日

第79話


新羅本紀によれば、「344年に倭国が通婚を求めてきたが、もう娘は嫁に出してしまっていない、と断ったという。倭国側は結婚を断るのは同盟の破棄、あるいは平和条約の破棄である、と受け止めた様子で、翌三四五年には、移書絶交と外交文書を送って国交断絶を宣言し、その翌年の346年には大規模な侵攻を開始して、辺境を荒らし、さらに進んで慶州を包囲するという事態になった。新羅側は正面決戦を避けて持久戦を計った。新羅軍は城門を固めて出撃せず、倭軍は食糧が尽きて後退をはじめる。そこに騎馬隊を出して追い討ちをかけたという。新羅側の理にかなった戦法に、倭の遠征軍はなんの成果もあげずに引き揚げた。」


この、新羅に攻め込んだのが、五つ彦(イトテ)すなわち五十猛であると「仲哀天皇紀」は書いています。そして九州にもどって来た五つ彦はそこで神功皇后に降伏するのです。


「又、筑紫の伊覩県主の祖五十迹手、天皇の行す(いでます)を聞りて、五百枝の賢木を抜じ取りて船の舳艫に立てて、上枝には八尺瓊を掛け、中枝には白銅鏡を掛け、下枝には十握剣を掛けて、穴門の引嶋に参迎へて献る。」


曲玉と鏡と剣、三種の神器と同じ組み合わせの宝物を、船の上に立てた神木に掛けて、征服者に捧げる。三種の神器は支配権の象徴、王者の印であるから、これを捧げることは、征服者による支配権の没取、降服を意味しています。


神功皇后は明治から太平洋戦争敗戦までは学校教育の場で実在の人物として教えられていましたが、現在では実在説と非実在説が並存しています。津田左右吉は、倭国が一時新羅を圧服したのは事実だが、神功皇后は物語であって史実ではなく、6世紀前半から中葉の継体から欽明朝にかけての成立としています。そのせいか丁度120年だけ時代がずれています。すると干支では同じ年代の表記になります。五つ彦=孝元天皇=饒速日は、240年に崩御していますから、この話(倭国側)は信用できないのです。。


記紀は、新羅に負けた責任を五つ彦(イトテ=五十猛)に擦り付けたのです。しかも五つ彦は新羅系の王族として、この戦自体を新羅の内戦としています。つまり五つ彦が神功皇后に降伏したのは、五つ彦が日本に亡命してきたことにしているのです。


素戔嗚尊(スサノオ)とともに新羅曽尸茂梨に天降り、スサノオがこの地吾居ること欲さず(「乃興言曰 此地吾不欲居」)と言ったので、一緒に埴土船で渡って出雲斐伊川上の鳥上峯に至ったとあります。いったん新羅に行ったのですが、すぐに帰ってきたのです。


以前書きましたが、スサノオと五つ彦(五十猛=饒速日)がすぐに帰って来たのは新羅に追い返されたということでしょう。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


恭順を誓ったイトテを仲哀天皇は褒めてこう言っています。


 「天皇、即ち五十迹手を美めたまひて、「伊蘇志」と曰ふ。故、時人、五十迹手が本土(もとのくに)を号けて、伊蘇国と曰ふ。」


 このイソの国は、現在の福岡県糸島郡、古代の伊都国のことでしょう。五十猛は、木の国(和歌山)での活躍が目立っています。本土とは、〒649-7199和歌山県伊都郡かつらぎ町ではないでしょうか。


ある研究者は、イトテ(五つ彦=五十猛)が新羅から渡来したとし、「本土」は慶州の新羅国の西方に”伊西国”あるいは”伊西古国”としています。


しかし、本当のところは、紀ノ國のイソ郡が先で、五つ彦(一大率)が九州に行った地をイトとしたと思われます。仲哀天皇がイトテを褒めたというのも後で作った話でしょう。



※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

 今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。 

※これまでの記事はこちらです。



閲覧数:60回1件のコメント

最新記事

すべて表示
bottom of page