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タケハニヤスの乱(最終章) ~京都市北区出雲路

更新日:2月14日

第65話~大国主の誕生  


これまで書いてきましたようにタケハニヤス(武埴安彦命)は、大彦に散々に打ち破られ樟葉の渡しから北の方に逃げます。タケハニヤスの根拠地は、愛宕郡(おたぎぐん)であったと思われます。愛宕郡は乙訓(おとくに)郡の別名で、京都市北区の一部:紫野・紫竹・大宮・西賀茂・出雲路・小山・上賀茂・鷹峯・雲ケ畑を指します。賀茂川の周辺です。タケハニヤスは、この愛宕郡をみずから、国(クニ:狗奴)としていました。


丹波橋のクガ耳もタケハニヤスの支配下にいたのでしょう。クガミミが殺害されたと聞きタケハニヤスは、腹違いの弟:大彦が自分の領地・権利を狙っていることを察知し、行動を起こします。


246年(魏の正始6年)、タケハニヤス(本名は手研耳命)は、まず妻の実家である葛城のアタ族を総動員して河内に突入させます。つるはしを担いだ小人(土蜘蛛)も動員されました。その対応で大彦の軍が河内に向かった隙を狙って、ミマキ国(枚方)に攻め込む作戦を立てます。山代川(淀川)を渡り楠葉から一気に大彦のいる枚方禁野に向かいます。孝元天皇(饒速日)は都丘町(〒573-1165)に大きな館を作っていました。枚方は淀川から上陸すると、すぐ高い崖になっており天然の要塞です。その後ろは、交野から奈良盆地につながっています。禁野〒 573-1197はその崖の最先端です。孝元天皇の后(中宮:ちゅうぐう)はまだ枚方市中宮(なかみや)山戸町(ヤマト)〒573-0011にいたと思われます。大彦の子、事代主(三島の溝杭)は茨木市の奈良〒 567-0874にいました。茨木とは茨で築いた堅固な城という意味です。木は城です。こちらの主将は若き事代主です。宰相のウツシコオも茨木市の穂積〒 567-0044で軍を率いて控えていました。万博公園の近くです。ウツシコオは穂積氏の遠祖です。この時、ウツシコオは245年に魏から貰った黄色い旗を掲げていたはずです。ウツシコオは難升米です。饒速日の息子ウマシマジは兄の大彦とともに禁野に布陣していました。饒速日のもう一人の子であるタカクラジ(高倉下)は大彦です。説明はまた後日


戦いは、あっけなく終わりました。河内にはあの長脛彦がいます。アタ姫の率いる土蜘蛛軍団をあっさり片づけてしまいます。アタ姫もこの時殺されました。そしてタケハニヤスの軍も枚方市牧野あたりで、大彦とウマシマジの騎馬軍団に容赦なく殲滅されてしまいます。四条畷市の蔀屋(しとみや)北遺跡では馬の骨や歯の一部が多数みつかっています。また馬に騎乗するための馬具や、飼育に必要であった塩を用意した大量の製塩土器も発見されています。これらの出土資料から蔀屋北遺跡は馬の飼育をおこなった人々(馬飼集団)の集落跡であったことが明らかにされています。四條畷と馬匹文化


こうして鵜殿の渡し、樟葉の渡しから生き延びた少数の敗残兵は、なおも北に逃げます。タケハニヤスもその中にいたのでしょう。賀茂川が鴨川になったあたりに出雲という地名があります。京都市北区出雲路。下賀茂神社の近くです。私の娘は京都府立大で、息子は京都工芸繊維大学ですから、この近くには何回か来たことがあります。


この辺りでタケハニヤスは果てました。大彦には邪魔者がいなくなりました。大彦は大国主になったのです。タギシミミ(タケハニヤス)が持っていた葛城の銅鉱山も手に入れて大穴持ち(オオナムチ)にもなりました。穴とは鉱山のことです。


お分かりでしょうか。大和政権に立てつくものが出雲なのです。この後、大彦の実力に恐れたウツシコオの陰謀により、大彦自身が出雲の大国主になったのです。


※この記事は現在書き直しを検討しています。武埴安彦命の乱~天児屋根の陰謀 (hidemaru3375.com)



タケハニヤスの乱2 ~阿太(奈良県五條市)

タケハニヤスの乱4 ~大彦は、綏靖天皇


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<後記:騎兵隊の出現>


蔀屋北遺跡は5世紀のものと思われます。

新羅本記では、タケハニヤスの乱より、ちょうど百年後の346年に新羅が慶州を包囲した際に倭の軍を騎兵隊で蹴散らしたと新羅本記にあります。

三国志よりも前の時代の春秋戦国時代に趙(ちょう)王である武霊王は、異民族の騎馬隊と服装に目をつけて自国の臣下達や兵士達に、異民族が着ている服を着せて、騎射を行うように命令して騎馬隊を作り上げています。魏との交流のあった邪馬台国(ヤマト)でも、新兵器として馬は数頭いたとしてもおかしくはないと思います。蔀屋北遺跡も5世紀になった途端にできたわけではありません。


御牧国(ミ・マキ)の牧は、牧場のマキだと思うのですが、、、

2023.11.6

古代朝廷直轄牧場古代山城国久世郡綴喜郡にかけて、木津川両岸にあった皇室牧場。古くはその地一帯を美豆野といって、馬寮御牧で、馬の放飼いや鷹狩が行なわれていた。のち北東岸が御牧村、南西岸が美豆村となる。現在の京都市伏見区の南西部から京都府久世郡久御山町の北西部の一帯。「御牧(みまき)」として、天皇に献上する馬を飼育していました。


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正始6年(245年)、難升米に黄幢(黄色い旗さし)を仮授し、帯方郡に保管されました。正始8年(247年)に邪馬台国と狗奴国の和平を仲介するために帯方郡の塞曹掾史張政が倭国に渡り、その際に難升米に黄幢と詔書を手渡しています。


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<追記> 京都府相楽郡精華町いずもりという旧跡があり、武埴安彦破斬旧跡(タケハニヤスが切られた所)とも言われています。出雲の森でしょうか??


2023.11.6

京都市北区出雲路が「出雲」のはじめではないかと思います。タケハニヤスは当時の大和朝廷にとっては、好ましくない存在でした。しかし、タケハニヤスも王家の血筋です。そこで御牧国の者たちは、隠語としてタケハニヤスのことを「出雲」と呼んでいたのではないでしょうか。保津川もそこの頃は、タケハニヤスとクガミミによって独占されていたため、その利権を得ようとした大彦によって滅ぼされてしまったのです。

亀岡に出雲大神宮が創建されたのは、この事件と関係があると思っています。



※これまでの記事はこちらです。このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。

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