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卑弥呼は名草トベ~和歌山市

更新日:3月5日

第92話~鴨王はウツシコオ


素戔嗚と饒速日の親子(孝霊天皇と孝元天皇)が紀ノ川の河口付近の名草(今の和歌山市)にやってきます。この辺り名草山には、太田黒田遺跡があります。ここでは朱と灰を交互に積み重ねた祭祀跡が出土しています。黒田遺跡は孝霊天皇(素戔嗚)の黒田宮との関連が推測されます。


日本書紀では、この名草の支配者の名草トベ(トベは女性の長:おさ)を殺したことになっています。目的は朱(水銀)です。実際は銅鐸も出土していることから、平和的に同盟を結んだのかもしれません。


素戔嗚と饒速日(五十猛)の二人が、活躍した痕跡は紀ノ國、岡山、山口など各地にあるイタテ(射盾神社)、兵主神社で見つけることができます。イタテが五十猛、兵主が素戔嗚です。兵庫県姫路市では、射盾兵主神社があります。


ここ名草で、素戔嗚と饒速日の家臣になったと思われるのが、大名草比古命で、その子が莵道彦(うじひこ:日本書紀)または宇豆比古(うずひこ:古事記)です。珍彦(うづひこ:椎根津彦:槁根津日子)は、明石海峡での呼び名です。宇豆比古は、紀ノ國(木の国)での呼び名です。ウズヒコの別名は鴨王(黒速)で、この鴨王こそがウツシコオであるというのが私の、推論です。下記参照


兄磯城を討った手柄でウズヒコ(黒速)は、磯城の土地あたえられオトシキ(弟磯城)になったわけです。兄磯城と兄弟ではありません。ウズヒコ(黒速=鴨王=弟磯城:オトシキ)は、この時点ですでに饒速日(五十:孝元天皇)の配下であった思われます。


元々、海運業者であった弟磯城(鴨王)は、京都府八幡市内里に拠点を移します。ここは茅渟の海からの河内湖、山代川、桂川、木津川が合流する地点です。木津川を遡れば、銭司、賀茂(加茂)、海住山寺、恭仁京跡、そして椿井大塚山古墳などの重要な史跡があります。

桂川は亀岡(投馬国)のある保津川に繋がっています。木津川は当時の高速道路ともいうべき便利な川だったのです。淀川に入る当時の首都(邪馬台国)のミマキ国(高槻、枚方)、三島(茨木市)まで歩かずに行けます。さらに淀川を下ると大阪湾(なみはや;浪速)です。木津川は高速道路 ~山城 (hidemaru3375.com)


鴨王ことウツシコオが内里に移動したという推論は、突拍子もないと思われるかもしれませんが(次号で説明)、実はウツシコオの子、イカガシコオの子つまりウツシコオの直系の孫も紀ノ國から后を迎えています。天尊本紀には、イカガシコオの子、大新河命(オホニイカワ)が木国造荒河刀辨(紀ノ國のアラカワトベノ)の子の中日姫を娶ったと書かれています。崇神天皇(ミ・マキ・イリヒコ:御牧入彦)も、アラカワトベノの娘の遠津年魚眼眼妙媛(トホツ・アユメ・マクハシ姫)を娶っています。正后は五十鈴姫

以降も天皇家は磯城地方の「県主」と密接な関係があったことが確認されています。


ウツシコオの父は大水口と書かれていますが、大水口はイカガシコオの子です。つまり大水口はウツシコオの父親ではありません。そしてウツシコオの姉のウツシコメも、ウツシコオとともに名草から内里にやって来たと思われます。ウツシコメは卑弥呼です。


名草トベは、実際は殺されていなかったのです。地方の有力な権力者を殺したことにして、神として祀りその神格化された権威を受け継ぐというのが、大和政権のやり口です。

ミマキ国に来たウツシコメ(卑弥呼)は、孝元天皇の后(饒速日)となりました。


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<追記> 椎根津彦(しいねつひこ:日本書紀)は槁根津日子(古事記)とも書かれています。「槁」は「高木」で高木神=タカミムスビ=ウツシコオです。牧尾一彦著「邪馬台国と神武天皇」p404



※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。 

※これまでの記事はこちらです。



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