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とよ(五十鈴姫)~桜井、豊中

更新日:2023年12月4日

第76話


五十鈴姫(ホト・タタラ・イスケヨリ・ヒメ)は、めでたく(ミ・マキ・イリヒコ:御牧入彦)と結ばれました。二人は、桜井へと移動します。三輪山の麓、佐井川のほとりに住んだと言われています。五十鈴姫が生まれた茨木市の五十鈴〒567-0000 の付近には安威川(あいがわ:相川)が流れており、「さい川」と「あい川」は発音がよく似ています。奈良市内に卒川神社(いさかわ)があり、姫タタラ・イスケヨリ姫を祀っています。いさ(isa)はさい(sai)と似ています。


なぜ五十鈴姫が、三輪山に移転したかというとこの付近では鉄が出るのです。三輪山の付近にある穴師坐兵主神社があります。兵主神は鍛冶、製鉄の神です。穴師は鉱山技術者のことです。三輪山斜面を流れる佐井川が下った所に茅原(ちはら〒633-0072)という場所があります。以前高師小僧の回でも茅渟(ちぬ)について書きましたように、「茅」は「血」で赤いという意味です。沼鉄鋼は赤い色をしています。


そうです。時代は銅から鉄に変わったのです。桜井への移転はミマキ国(高槻・枚方)が疫病の蔓延で民の数が半分になり、さら人々がミマキ国から流失していったためだと私は思っていました。が、それだけではなかったのです。


銅剣・銅鐸の時代は終わったのです。五十鈴姫はかなり頭脳明晰だった思われます。五十鈴姫は、実質上は大和の天皇だったのかもしれません。というのも卒川神社に五十鈴姫を祀ったのは飛鳥時代の女帝:推古天皇です。推古天皇は五十鈴が女帝であったことから自分の正当性を確かなものにしたかったからだと思えます。


卑弥呼(萬幡豊秋津師比売命=ウツシコメ)亡き後、物部のトップはの五十鈴姫です。天皇后ということで兄のウマシマジのよりも地位は上です。すなわち五十鈴姫はトヨです。


トヨという名前についてですが、私は五十鈴が一時期、豊中(旧摂津国豊島郡新免村)にいたからだと思います。豊中はミマキ国の中でも穂積臣の領地でした。ウツシコオイカガシコオの流れを組むミマキイリヒコ・イニエは為奈部(イナベ:大阪府の北西に)の出身です。13歳になってイニエと婚約したことで、伊那部(豊中)に移ったのでしょう。


豊中市の上津島に弥生終末から平安時代にかけての遺跡群があり、海を越えた交流を示す土器、物流の主体となる倉庫・建物跡などが出土しています。また、この場所で神崎川の旧河床が確認され、北から流れてくる猪名川と東からの神崎川の合流点であったことがわかってきました。当時、上津島は猪名川流域と神崎川・淀川水系を結び、瀬戸内から北九州に繋がる水運の拠点であったことが伺われます。


港のあった上津島まで千里川の水運があります。北摂・能勢・山背の産物がここに集まりり、それらを一旦保管し、上津島から船で瀬戸内海、北九州へ運びだしていたと考えられます。朝鮮半島で必要な物資を北九州から輸送していた可能性も考えられます。


三島と桜井との流通に使われていた奈良盆地湖、河内湖は用済みになったので灌漑で水田になりました。農耕器具を鉄器にすることで生産性は大いにあがります。五十鈴とミマキ入彦(崇神天皇)は農業に力を注ぎ国力は格段に大きくなりました。桜井に巨大な箸墓が作られるだけの国力がついたのです。


桜井に大和朝廷(邪馬台国)が移動したことによって三島は奈良(首都)ではなくなりました。ここからは、奈良は皆さんの知っている奈良になります。



{参考文献} 「謎の四世紀」 上垣内憲一著



※これまでの記事はこちらです。

※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。

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