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  • tootake

三島(御島) 本当の奈良

更新日:4月25日

第6話


私は三島郡三島町の生まれです。小学校は三島郡三島町「三宅小学校」です。

小学生のころ自転車を買ってもらって、勇んで近所を走り回りました。

しばらく走ると、奈良というところに着きました。むろん奈良県の奈良ではありません。大阪府茨木市の奈良です。

玉串、五十鈴、沢良宜、天王などという少し変わった地名もありました。

最近、茨木市の奈良という地名を不思議がった大阪ローカルのテレビ局が神社の宮司にその由来を聞いていましたが、宮司は「昔、奈良の神社にお参りに行った人がいて、大変ご利益があったのであやかって奈良にした」

と答えていましたが、笑ってしまいました。いかにも凡人がその場しのぎで答えそうないいわけです。

東奈良遺跡という大きな遺跡が発見される前のことです。

この時は知らなかったのですが、五十鈴姫は神武天皇の后、玉串姫はその母親です。三島の溝杭については神武天皇の東遷の際に道案内したとされる矢田烏であるともされています。

 東奈良遺跡は非常に大きな集落遺跡です。銅鐸(どうたく)を作った多数の道具や完全な形の鋳型(いがた)が出土したことで、全国的に有名で、最近も土器に刻まれた写実的な銅鐸(どうたく)の絵が見つかって話題になりました。


その後私は私立の高槻中学高校に進学しましたが本来なら地元公立の春日丘高校に進むはずでした。奈良にも春日がありますが、中臣氏の出身地である春日は茨木市三島の春日です。

この学校の地名も沢良宜で近くに安満宮古墳もあります。

ところで三島の溝杭ですが、この奈良のあたりは運河の跡と思われる遺跡が発見され、その技術は当時としては非常に進んだもので、奈良県の桜井にある纏向遺跡にもみられる技術です。溝杭とはこの運河のことと思われます。

茨木市穂積は、最近事故があった亀岡からの保津川のホズで桂川、淀川の水運を生かして大量の物資を輸送したところからでた地名です。

東大阪にある饒速日を祀る石切神社の宮司は今でも穂積(木積)です。

玉串は玉串姫で、溝杭の娘ですが三輪山の大物主との伝説で知られている人物です。京都の貴船神社、上賀茂神社などにも祀られていることから、溝杭が桂川・淀川水系を支配していたこと分かります。

で三輪山の神(大物主)と玉串姫との間に生まれたのがホト・タタライスケ・ヨリヒメ(五十鈴姫)です。

ホトと女性の陰部のことですが、「ふいご」のことと一般的には理解されているようです。たたらにはふいごがつきものなので、東奈良遺跡との関連がよく分かります。ホトでは流石に体裁が悪いと思ったのかホトを姫に変えてヒメ・タタライスケヨリ姫と呼ぶ人が多いようです。

しかし古代日本では、ホトを露わにして呪術を行っていたとおもわれ、例の天のウズメもそうですが、和泉式部日記にも、女性の祈祷師がホトを露わにしていたので見ていて恥ずかしくなったと書かれています。

イスケヨリ姫(五十鈴姫)は呪術師であった可能性も考えられます。

五十鈴姫は初代天皇とされる神武の后ですが、神武が架空の天皇だとすると誰の后だったのでしょうか?茨木市の奈良の方が現在の奈良盆地(県)よりも古いと考えてみてください。いろんなことが見えてきます。


関連項目:二つの奈良 ~内里と三島 ※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。



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