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阿曇磯良は天児屋根命??

更新日:6月15日

第315話


前号で阿曇磯良が、ウガヤフキアエズのミコト天児屋根命とが同神とされていると書きました。これは驚きです。一体どういうことでしょうか。


阿曇磯良(あづみのいそら、安曇良)は、海の神とされ、また、安曇氏(阿曇氏)の祖神とされています。「磯」と「渚」は共に海岸を指すことから阿曇磯良は豊玉毘売命の子で、日子波限建(ヒコナギサタケ:鵜葺草葺不合命の別名)と同神であるとする説があります。


第257話:邪馬台国の誕生 では、私が現在住んでいるところは、京阪電車の御殿山付近です。この辺りはと呼ばれています。またすぐ近くに島(〒573-1186)という地区もあります。と書きました。阿曇磯良はウガヤフキアエズのミコトと言っても良いでしょう。


八幡愚童訓(石清水八幡宮縁起)では、磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神であるとしていますが、これは信用できませんが、考えて見れば天児屋根命はずっとウツシコオ(内色許男命)と行動を共にしています。天児屋根も呉の勝の一族であったということです。


第263話:中臣氏~中臣烏賊津 では呉勝とは別に呉公(くれ の きみ)という氏族があり、この氏族について撰姓氏録「天相命十三世孫・雷大臣命の後なり」と収録されています。雷大臣命(いかつおみ)は伊賀津臣命(なかとみのいかつおみ)のことで、この呉氏は中臣氏の一族でとされています。と書きました。


磯良の明神は奈良春日大社でも祀られており、春日若宮おん祭の細男(せいのう)と称して磯良の舞が奉納されています。


平安期の記録に「宮廷の神楽に人長(舞人の長)の舞いのあと、酒一巡して才の男(才男)の態がある」と次第書きがあり、この才の男から転じた言葉で、滑稽な物真似のような猿楽の一種であろうと推測されています。風姿花伝では、天の岩戸に隠れた天照大神を誘いだすために神楽に合わせて行なった滑稽な演技「せいのう」を猿楽の起源のひとつとして挙げています。


雅楽の始祖は、神八井耳命のとされその後裔とされる9世紀の多自然麿、その子孫は地下(じげ)の楽人として代々宮廷に仕えています。雅楽も元は周王朝の宮廷音楽です。雅楽は日本にだけ完全な形で残っています。なぜ日本にあり、中国では消滅したのでしょうか。

その文化の担い手が中国から日本に移住したからです。「舞」は呉の勝(スグリ)が日本にもって来た物の一つです。第293話:八咫烏の由来、第304話:隼人族は呉の勝 でも呉の勝と「舞」について書いています。


長脛彦も呉の勝(スグリ)の一族で紀伊の国(和歌山)の※名草の郡の太田の村から、摂津の国の三島の賀美の太田の村に移ってきたのです。※名草は渚です。第256話:ウガヤフキアエズのミコト 第48話:太田市と遺跡 ~呉の勝

中臣氏の一族も三島(茨木市)に移り住んだのでしょう。大阪府茨木市(=三島;御島)の市内には春日神社9社もあり、これによっても中臣氏が、三島=邪馬台国と深く関わっていたことが分かります。第190話:天児屋根命


阿曇磯良は「阿曇磯良丸」と呼ぶこともあり、船の名前に「丸」をつけるのはこれに由来するとする説があります。宮中に伝わる神楽の一つ「阿知女作法」の「阿知女(あちめ)]は阿曇のことです。


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2024.6.15追記

これは信用できません。としてしまったのは、天児屋根命は中臣氏=藤原氏で物部氏を滅ぼした一族だという固定観念があったためです。中臣氏が藤原氏を滅ぼすのは邪馬台国の時代よりも何百年も後のことです。天児屋命はウツシコオ!! です。



※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。





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2 comentários

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
14 de mai.
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なお、『書紀』十三によると、その後、允恭天皇の朝廷にも舎人の「中臣烏賊津使主」という人物が登場するのであるが、同名異人であるとも、伝承の混乱であるとも言われている。『新撰姓氏録』の中臣志斐連、神奴連の系譜では、天児屋命からの世代数にはそれぞれ若干の異同があり、烏賊津に該当する人物は、「伊賀津」と「雷大臣命」の2名になるが、壱伎直、生田首の雷大臣は世代数や系図からも崇神天皇の二世代前の人物である伊香津臣命(伊香迹臣命)であり、類似した名称を持つ人物である。飯田武郷の「日本書紀通釈」は時代と身分が異なるとしており、河村秀根の「書紀集解」は祖父の名をもって、舎人として仕えた、としている。


臣狭山命(おみさやまのみこと)は、古墳時代豪族中臣氏の祖。

異表記として『常陸国風土記』に中臣巨狭山命(なかとみのおおさやまのみこと)、『続日本紀』には意美佐夜麻がある[1]

『常陸国風土記』香嶋郡条に鹿島神宮の御船祭の起源として登場する。同条によると、倭武天皇の御代に、天之大神が臣狭山命に御舟を(もって天皇に)仕えるよう託宣し、臣狭山命はこれに従ったとされる。大神は夜が明けると「舟は海に置いた」と言い、臣狭山命がこれを探すと、舟は岡の上にあった。大神は「舟は岡の上に置いた」と言い、これを探すと今度は海に舟があった。このやり取りを繰り返す内に、臣狭山命はとうとう恐れ畏んで新たに長さ二丈余の舟三隻造らせて献上したとされる。

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
11 de mai.
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<邪馬台国の新常識>

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