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徐福伝説と「呉の勝」

更新日:3月29日

第271話


B.C.219年、秦の時代の中国に徐福(じょふく)という人物がいました。

徐福は始皇帝に上書して、東海の神山にある不老不死の仙薬を取りに自分を派遣してもらいたい、その際3千人の童男童女を連れていきたいと願い出ます。


「平原広沢の王となって中国には戻らなかった」と中国の歴史書に書かれています。この「平原広沢」は日本であるともいわれています。実は中国を船で出た徐福が日本にたどり着いて永住し、その子孫は「秦」と称したとする「徐福伝説」が日本各地に存在するのです。


中でも和歌山県南部に位置する新宮市は、一番の候補地です。

太平洋の大海原に面し、沿岸を黒潮が流れる温暖な地。そんな新宮の熊野川の河口近くにある蓬莱山は、こんもりと半球型の美しい形をしています。徐福は、蓬莱山の麓に上陸したといわれています。何日もかけた大航海の末にたどり着いたのが、和歌山県の熊野だったわけです。


だとすると、この徐福こそが播磨国風土記のいうところの後の勝ではないかと私は思ってしまいます。「太田と称するわけは、昔、呉の勝(スグリ)が韓の国から渡ってきて、はじめ紀伊の国(和歌山)の名草の郡の太田の村に着いた、その後、分かれて摂津の国の三島の賀美の太田の村に移ってきて、それが揖保の太田の村に移住して来た。これは元居た紀伊の国の太田をとって里の名とした。」 


熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)は、和歌山県田辺市本宮町本宮にある神社で、熊野速玉大社・熊野那智大社と共に、熊野三山を構成しています。家都美御子大神(けつみみこのおおかみ、熊野坐大神〈くまぬにますおおかみ〉、熊野加武呂乃命〈くまぬかむろのみこと〉とも)を主祭神としています。


家都美御子大神は素戔嗚の別名です。「伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなご)」は「イザナギが可愛がる御子」の意、「加夫呂伎(かぶろぎ)」は「神聖な祖神」の意としている。「熊野大神(くまののおおかみ)」は鎮座地名・社名に大神をつけたもので、実際の神名は「櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」ということになる。「クシ」は「奇」、「ミケ」は「御食」の意で、食物神と解する説が通説です。


熊野に鎮座する熊野三山の祭神にの中に三毛入野(ミケイリノ)に通ずる名前をもつものがあることと関わっている。すなわち、熊野本宮の主神である家津美御子(ケツミミコ)大神である。これだけでは、三毛入野との関りがわからない、という人もいるであろう。それに対しては、出雲にある熊野大社の名前を参照することで答えよう。出雲の熊野大社の祭神は櫛御気野命(クシ・ミケヌ)とされる櫛=クシ「奇し」であり、霊妙を意味する美称である。ミケヌが名前の本体である。この名前がミケイリノによく通ずるのである。」上垣内憲一「謎の四世紀」p137


ウガヤフキアエズは玉依姫との間に彦五瀬命、稲飯命、三毛入野命、彦火火出見尊(神武天皇)をもうけたとされています。日本書紀によると、ウガヤフキアエズの母である豊玉姫は海宮(わたつのみや:舟の中)で懐妊したとあるのも徐福伝説と結びつけるとリアリティーが出てきます。


中国には,徐福=神武天皇とする説も有ります。徐福は中国を出るとき,稲など五穀の種子と金銀・農耕機具・技術(五穀百工)も持って出たと言われます。一般的に稲作は弥生時代初期に大陸や朝鮮半島から日本に伝わったとされますが,実は徐福が伝えたのではないかとも思え,徐福が日本の国つくりに深く関わる人物にも見えてくるのです。


和歌山の名草で誕生したウガヤフキアエズこと素戔嗚が三島に行き大山祇のと和合し大和(邪馬台国)となったと書きました。そして大歳=饒速日が稲作を広めたとも書きました。

まさにぴったりです。邪馬台国の誕生   大歳~稲耕の神


史記巻六「秦始皇本紀」に登場する徐氏は、始皇帝に不死の薬を献上すると持ちかけ、援助を得たものの、その後始皇帝が現地に巡行したところ、実際には出港していなかった。そのため、改めて出立を命じたものの、その帰路で始皇帝は崩御したという記述となっており、「不死の薬を名目に実際には出立せず、皇帝から金品をせしめた詐欺師」として描かれています。それは莫大な経費をかけて鳴り物入りで出港したきり、その後一切消息不明になったのですから、詐欺師と言われても当然でしょう。


熊野(現在の三重県熊野市波田須町)周辺には徐福ノ宮があり、彼が持参したと伝わるすり鉢をご神体としています。 また、同地からは秦代の貨幣である秦半両が出土しています。



※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

 今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。 

※これまでの記事はこちらです。


 


不死の妙薬を求めて航海に出る徐福(歌川国芳画)


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3 Comments

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Mar 31
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徐福一行が着いたところが当時の日本であった。秦の始皇帝の時代の不老不死の薬とは硫化水銀のことで,伝統中国医学 では「朱砂」や「丹砂」等と呼び,鎮静,催眠を目的として現在でも使用されているとの事である。 神武は彼等を率いて宇陀に出た。宇陀は,伊勢と並んで古代から我が国の水銀・辰砂の産地の双璧だったからであ る。事実,有名な大和水銀鉱山や神生水銀鉱山は各々1971年,1961年に閉山するまで優良鉱脈であった。


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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Mar 28
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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Mar 27
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徐福上陸の地伝説に基づき、秦住・秦栖(どちらも「はたす」と読む)と命名された[6]。ただしこの説を紹介した『紀伊続風土記』は「妄説にして信ずるに足らず」と評しており[8]、一部学者は否定している[54]

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