第347話~推古天皇は長脛彦の妹
聖徳太子は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)をモデルに創作された架空の人物です。
参照:聖徳太子は菟道稚郎子?! ということは彼が摂政を務めていた時の天皇、推古天皇も架空の人物ということになります。
6世紀末当時、「皇太子」という地位・称号はまだ存在していませんでした。
推古天皇(すいこてんのう)は、日本の第33代天皇(在位:593年~ 628年)。
日本史上最初の女帝とされ、代々の天皇と共に淡海三船によって名付けられたとされています。ということは、架空の天皇ということです。推古店の系譜を伝えるのは日本書紀と古事記で、治世が短期間だったこともあり、その内容は仏教関係記事がわずかに挟まる以外はほとんどが守屋討滅事件で占められ、全体が物部氏滅亡の物語といっても良いものとなっています。参照:第70話:建御名方は物部守屋~信州諏訪
この頃の日本は本格的に仏教が興隆していく時代で、初の遣隋使(一般に西暦600年とされる)が派遣されています。589年に隋が中国を統一し南北朝時代が終了すると、百済、新羅が相次いで隋に遣使した。こうした国際情勢を受け、600年に倭国(日本)からも隋への遣使が行われました。
隋書や北史はこの遣隋使を送った王を妻のいる男性としています。旧唐書・東夷 倭國 でも倭国の王の姓は阿毎氏(アメ=天)であるとしています。新唐書・列傳に「用明 亦曰目多利思比孤直隋開皇末 始與中國通」とあり、王(当時の天皇)多利思北孤としています。
姓は阿毎(アメ)、字は多利思北孤(タリシヒコ)、号は阿輩雞彌(オオキミ=大王)
多利思比狐の「比狐」(ひこ)は彦で男性と思われます。 タリシヒコとは王(天王)足る=値する人物という意味です。これによって女帝である推古天皇は上記の資料に登場しないことから実在していなかったと言えるのです。
ところで推古天皇の諱は額田部王(ぬかたべ)で、和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと:日本書紀。古事記では豊御食炊屋比売命漢風諡号の「推古天皇」です。豊御食炊屋姫尊(とよ・みかしきや・ひめ)とは長脛彦の妹の三炊屋媛(御炊屋媛)のことです。額田(ぬかた)は、大阪府東大阪市山手町で饒速日を祭る石切神社の近くです。
交野市に私市(きさいち)という地名があります。日本書紀では577年敏達天皇の皇后、御食炊屋姫尊(後の推古天皇)にこの地を献じて、ここが私市部となった とされています。しかし交野地方は 肩野物部氏 の所領で、その先祖・饒速日命 は天の磐船に乗って河内の哮が峰に天降ったと先代旧事本紀に記されており、また近くに物部氏のものと推定される巨大な古墳群が発見されています。もともとこの地は物部一族のものだったのです。
すぐそばの大阪府交野市倉治は高倉下(たかくらじ)の屋敷があったと思われます。
高津姫 ~岩船街道で書いたように高津は、交野市郡津(コウズ)です。高津姫、高倉下、高照姫、高日子根、高天原はいずれも交野市です。
また、この地方は地味肥え作物豊かな野であったので「甘野」といわれ、後に天野(あまの)となりました。古事記・日本書紀に出てくるアマ・アメはこの交野市私市(天野)が起源です。
私市の私は「うち」ともいいます。大阪では女の子は自分のことを「うち」と言っていました。「じゃりン子チエ」や「うる星やつら」のラムちゃんも自分(私)のことを「うち」といっていましす。京都府男山市のウツシコオ(内色許男命)拠点である内里(うち)とおなじです。「うち」です。私市は、長脛彦=ウツシコオ(内色許男命)一家のプライベートな地だったのです。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
※これまでの記事はこちらです。
<目次>
<邪馬台国の新常識>
ウガヤフキアエズのミコト
邪馬台国の誕生
徐福伝説と「呉の勝」
日向は大阪府守口市
櫛名田比売2~八雲は守口市
ウツシコオの名前についての弁明
多氏と長脛彦
饒速日と長脛彦
<河川は古代の高速道路>
市寸島比売は厳島!~広島・三島 )
真舌媛は、宗像三女神!~三島(茨木市)
全ての道は三島に通じる。
<欠史八代の天皇の正体>
素戔嗚(スサノオ)は、孝霊天皇
丹・朱を求めた天皇たち
<大彦>
大国主は、大彦
大彦
大彦は、高倉下~新潟県西蒲原郡弥彦村
大彦の北陸道遠征
大彦~メスリ山古墳: 桜井市
大彦は、綏靖天皇~タケハニヤスの乱4
大国主は、大彦 ~出雲は三島
<卑弥呼>
卑弥呼は名草トベ~和歌山市
卑弥呼は萬幡豊秋津師比売
<ウツシコオ(内色許男命)=大綜麻杵(オオヘソキ)>
ウツシコオは難升米ではなかった?
ウツシコオは魏志倭人伝に登場する難升米
八咫烏の真実~ウツシコオ陰謀の始まり
<饒速日>
饒速日は大阪府茨木市出身
星の降る町~速玉は饒速日
伊都国 一大率は五十猛(饒速日)
孝元天皇は五十猛!~椿井大塚山古墳
五十猛の九州征圧
神功皇后と五十猛
饒速日が死んだ!~ウツシコオの陰謀
孝元天皇と家族たち
饒速日はスサノオの子
<タケハニヤスの乱>
:タケハニヤスの乱1
:タケハニヤスの乱2 ~阿太(奈良県五條市)
:タケハニヤスの乱3 ~小人国
:タケハニヤスの乱4~大彦は、綏靖天皇
:タケハニヤスの乱最終章
<邪馬台国の新常識>
ウガヤフキアエズのミコト
邪馬台国の誕生
徐福伝説と「呉の勝」
日向は大阪府守口市
櫛名田比売2~八雲は守口市
ウツシコオの名前についての弁明
多氏と長脛彦
饒速日と長脛彦
<河川は古代の高速道路>
市寸島比売は厳島!~広島・三島 )
真舌媛は、宗像三女神!~三島(茨木市)
全ての道は三島に通じる。
<欠史八代の天皇の正体>
素戔嗚(スサノオ)は、孝霊天皇
丹・朱を求めた天皇たち
<大彦>
大国主は、大彦
大彦
大彦は、高倉下~新潟県西蒲原郡弥彦村
大彦の北陸道遠征
大彦~メスリ山古墳: 桜井市
大彦は、綏靖天皇~タケハニヤスの乱4
大国主は、大彦 ~出雲は三島
<卑弥呼>
卑弥呼は名草トベ~和歌山市
卑弥呼は萬幡豊秋津師比売
<ウツシコオ(内色許男命)=大綜麻杵(オオヘソキ)>
ウツシコオは難升米ではなかった?
ウツシコオは魏志倭人伝に登場する難升米
八咫烏の真実~ウツシコオ陰謀の始まり
<饒速日>
饒速日は大阪府茨木市出身
星の降る町~速玉は饒速日
伊都国 一大率は五十猛(饒速日)
孝元天皇は五十猛!~椿井大塚山古墳
五十猛の九州征圧
神功皇后と五十猛
饒速日が死んだ!~ウツシコオの陰謀
孝元天皇と家族たち
饒速日はスサノオの子
<タケハニヤスの乱>
:タケハニヤスの乱1
:タケハニヤスの乱2 ~阿太(奈良県五條市)
:タケハニヤスの乱3 ~小人国
:タケハニヤスの乱4~大彦は、綏靖天皇
:タケハニヤスの乱最終章