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建御名方は物部守屋~信州諏訪

tootake

更新日:2024年6月13日

第70話


タケミナカタ(建御名方)は国譲りの時、に建御雷神との力比べに敗れてしまい科野(信濃)へ逃げたとされています。古事記では建御名方は、大国主神の息子の一人とされ、もう一人の息子の事代主はヤマト朝廷に降伏しました。


しかし、日本書紀や、出雲地方の古文献である出雲国風土記や出雲国造神賀詞にはこの建御名方神が登場せず、古事記でも大国主神の子でありながらその系譜に名前がみられないため、建御名方神は国譲り神話に挿入されたという説を唱える研究者が多いのです。


国史では諏訪の神が「建御名方神」という名前で登場していますが、諏訪では建御名方神の影が薄いのです。このことから、建御名方神は「ミシャグジ信仰をヤマト王権の神統譜に組み入れた結果生まれた神名」(大和岩雄、1990年)]または「朝廷への服従のしるしとして諏訪に押し付けられた表向けの神」(寺田鎮子・鷲尾徹太、2010年で、諏訪の本来の神はむしろミシャグジであるという説が度々立てられている。


日本書紀の持統天皇5年(681年)8月の条には「信濃の須波(諏訪)を祭らしむ」とあり、建御名方神を後世に創作された神とする研究者はこの「須波神」をミシャグジまたは守矢神(洩矢神)としています。建御名方神を後世に創作された神とする研究者はこの「須波神」をミシャグジまたは守矢神(洩矢神)としています。なおミシャグジ(御左口神・御社宮神)と諏訪明神は各々別神であると理解されていたようです。


敏達天皇14年(585年)、病になった大臣・蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めました。天皇はこれを許可しましたが、この頃から疫病が流行しだしました。

物部守屋は、蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めました。守屋は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵した上で、司馬達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ、衣を剥ぎとって全裸にし、海石榴市(つばいち/つばきいち/つばきち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、馬屋館に縛り付け、群衆の目前で尻や肩を鞭打ったと日本書紀には書かれています。


この事件がもとで蘇我馬子と厩戸皇子は、物部守屋を討伐することにしたのです。


モレヤは流れ矢のことで、洩矢神(守矢神)は守屋のことです。流れ矢に当たって守屋は死んだとされています。例のタケハニヤスの乱でも、「タケハニヤスは矢を射ったが、オオビコの軍には当たらなかった。次にヒコクニブクが矢を射った。するとその矢はタケハニヤスに当たり、そのまま死んでしまった。」とあります。


馬子と聖徳太子に敗れた物部の守屋は諏訪で果てたのです。ウツシコオが陰謀で勝ち取った物部一族の繁栄は終わりました。なお上記の事件の際、堀江にすてた仏像が、善光寺のご本尊だと思います。


建御名方が建御雷神に敗れてしまうのは、国譲りで最も重要な場面です。それが架空の人物ということは、出雲神話は、すべて創作だったのです。


<後記:2023.11.1>

建御名方は、南方刀美神で実在の人物と思われます。南方は大阪湾と河内湖を繋ぐ重要な拠点で、タケミナカタ(建御名方→南方)はそこの支配者だったのです。


関連項目:出雲神話の真実


※これまでの記事はこちらです。

※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。

 
 
 

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