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聖徳太子は菟道稚郎子?!

更新日:7月10日

第342話


聖徳太子は、実在の人物ではなかったとされるのは、大山誠一氏です。

その著書「聖徳太子の誕生」中で大山氏は「厩戸王の事蹟と言われるもののうち冠位十二階と遣隋使の2つ以外は全くの虚構」と主張し、さらにこれら2つも、隋書には推古天皇も厩戸王も登場しないとされています。聖徳太子についての史料を日本書紀の「十七条憲法」と法隆寺の「法隆寺薬師像光背銘文法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繡帳、三経義疏」は厩戸皇子よりかなり後の時代に作成されたものです。


推古天皇の皇太子である聖徳太子こと王族厩戸王は実在したようです。しかし信仰の対象とされてきた聖徳太子の実在を示す史料は皆無で、聖徳太子は架空の人物です。そもそも、その時点では皇太子、摂政などの制度はなかったのです。


私の考えでは、聖徳太子は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)です。時代が全然違うとの指摘は当たりません。古事記・日本書記を書いた人物と聖徳太子の伝説を書いた人物は同じ人物です。聖徳太子もウツシコオ(内色許男命)も不比等にとっては過去の人という点では同じなのです。分かりやすく言えば、菟道稚郎子をモデルに聖徳太子を創作したということです。


日本書紀(養老4年、720年成立)に最初に聖徳太子の人物像が登場します。その人物像の形成に関係したのは藤原不比等長屋王、僧の道慈らです。十七条憲法は日本書紀編纂の際に創作されたものです。聖徳太子の伝説は、ウジノワキノイラッコの伝説を参考に創作されたものです。


聖徳太子の別名は、豊聡耳聖(とよとみみのみこと)ですが、伊都郡天野荘丹生の家譜では莵道彦の子が豊耳命(等與美身命:とよみみのみこと)で、紀伊続風土記では莵道彦と豊耳命の間に配置される舟本命、夜都賀志比古命の2代について、「丹生(舟本)屋(夜)嗣がし(都賀志)」と解釈し、豊耳命に冠する称辞とされています。莵道彦(うづひこ)はウツシコオです。


菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は非常に賢い子であったらしく、漢文の書物をすらすらと読みこなせたそうです。日本書紀によれば、応神天皇28年には、高句麗からの上表文に「高麗王、日本国に教ふ」とある非礼を指摘し、これを破り捨てています。高句麗が日本に教えるなどとは失礼だということらしいのです。「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」を連想させます。


ところで聖徳太子の后は刀自古郎女(とじこ の いらつめ)が有名ですが、菟道貝蛸皇女(うじの・かい・たこのひめみこ)も聖徳太子の后(きさき)です。敏達天皇と推古天皇の皇女です。


ウジ=宇治、貝・タコ・姫変な名前です。


ここで思い出すのが、中臣烏賊津です。中臣烏賊(イカ

そして息長氏の祖とされる迦邇米雷王 かにめいかづちのみこ)です。

息長氏は中臣氏です。後述予定

貝(かい)、蛸(たこ)、イカ、カニは、当時も今も最高級のごちそうです。


菟道貝蛸皇女の菟道は宇治、すなわちウツシコオのウツ=宇治です。

菟道稚郎子菟道と同じ文字が使われています。

迦邇米雷王はウツシコオです。参照:朱智神社~迦邇米雷王


記紀の作者たちもユーモアを解するようです。こんな面白い仕掛けが隠されているとは不比等(中臣=藤原)は、かなりのの策士です。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。


<目次>





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4 Comments

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Jun 08
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ウヂ名の菴宜は伊勢国奄芸郡奄芸郷にちなむか。巷宜(そが)と読む場合は、大和国高市郡の曽賀、または筑前国早良郡曽我部郷に縁故のものと考えられる。


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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Jun 08
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母・間人皇女は西方の救世観音菩薩が皇女の口から胎内に入り、厩戸を身籠もった」(受胎告知)などの太子出生伝説に関して、「記紀編纂当時既に中国に伝来していた景教キリスト教ネストリウス派)の福音書の内容などが日本に伝わり、その中からイエス・キリスト誕生の逸話が貴種出生譚として聖徳太子伝説に借用された」との可能性を唱える研究者(久米邦武が代表例)もいる[注釈 15]

しかし、一般的には、当時の国際色豊かな中国の思想・文化が流入した影響と見なす説が主流である。ちなみに出生の西暦574年の干支甲午(きのえうま)でいわゆる年であるし、また古代中国にも観音神仙により受胎するというモチーフが成立し得たと考えられている(イエスよりさらに昔の釈迦出生の際の逸話にも似ている)。出生地は橘寺またはその付近とされる。橘寺はタヂマモリ垂仁天皇の御世に常世の国から持ち帰った橘の実の種を植えた場所といわれる。

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Jun 07
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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Jun 07
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