秦氏と大山咋神
- tootake
- 2024年8月30日
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第425号~大山咋神は土木工事の親方 #秦氏 #大山咋神
大山咋神(おおやまくい)と大山祇(おおやまつみ)の違いがよく分かりませんでした。
大山祇は三島(御島:大阪府茨木市)の神です。
嵐山(嵯峨)の法輪寺から南に下ると大山咋神(おおやまくいのかみ)=松尾山の神を祀る京都最古の神社である松尾大社があります。大宝元年(701)、秦忌寸都理(はたのいみき、とり)が社殿を建立し、松尾山山頂の磐座(いわくら)から神霊を移したのが開基です。大山咋神は秦氏一族の氏神だったのです。参照:松尾大社~秦氏はカモ族
第339話丹の湖~亀岡盆地は湖だった!! で書いたように、 亀岡盆地湖に関して大国主命が保津峡を開削、湖の水を抜き盆地を開拓したという伝承(蹴裂伝説)が、盆地周辺の神社数社で伝わっています。亀岡から嵐山に至る保津川周辺に大山咋神と市杵島姫命を祭る神社がいくつもあります。ちなみに市杵島姫命は保津川の守り神であるミホツ姫(御保津姫)=卑弥呼です。大国主命はウツシコオ(内色許男命)=スサノオです。
大山咋神の咋とは土木工事のことだと思い当たりました。三島の溝杭は三島湟咋とも書きます。秦氏は、土木工事を得意とした一族だと思われます。「山咋」の意味については、「山杙」を意味し、山頂の境界をなす棒杙の神格化とする説、また、山頂で行う祭に依代として打ち込む斎杭の神格化とする説があります。
三島の溝杭も三島湟咋とも書きます。溝咋と運河のことです。
ここで思い出されるのが、茨田堤(まんだのつつみ)と堀江の掘削でどちらも古代最大の土木工事です。この工事に秦氏が関わっていたことはいうまでもありません。参照:茨田堤 堀江~仁徳天皇は崇神天皇! 秦氏~大阪府寝屋川市・太秦
第405話で私は倭迹々日百襲姫(やまととももそ姫)をトヨとしました。
香川県の東かがわ市にある水主神社(みぬし)の社伝では、「倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトモモソ姫)は8歳のとき今の水主の里宮内にお着きになり成人になるまでこの地に住まわれた。土地の人に弥生米をあたえて、米作り又水路を開き、雨祈で、雨を降らせ、文化の興隆をなされた御人といわれる。」とあります。ヤマトトモモソ姫も秦氏のもつ潅漑土木技術を利用したとしか思えません。
このブログでよく登場するウツシコオ(内色許男命)=スサノオの子孫である空海と最も深いかかわりをもったのは秦(はた)氏です。参照:空海のルーツは内色許男命!
空海の時代にはすでに水田開発に条里制が採り入れられていました。これもヤマト王権の時代この地に定着した秦氏の農業技術がもたらしたものです。讃岐平野は秦氏の潅漑技術、とりわけ農業用水を池に溜め、それを広く田畑に引きまわす農業土木術の恵みで古くから潤った。播磨にも同様の水田開発がみられ、赤穂では製塩や船運が秦氏によってはじめられました。
秦氏は潅漑用水・港湾の修築まで、農耕・土木・養蚕・機織・鉱山・治水・製銅・精錬・冶金・工芸・酒造・製塩・船運等の技術を持っていました。
丹生一族も空海や秦氏と同系の一族であったと思われます。
弘法大師空海が高野山金剛峯寺を開いた際に地主神たる丹生都比売神社から神領を譲られたとする伝説が知られています。第63話:丹・朱を求めた天皇たち で「和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野にある丹生都姫神社のことに触れました。「丹生都姫は名草戸畔の事と思われます。なお名草には、太田黒田遺跡があり、孝霊天皇の黒田宮、鍵・唐古遺跡とも関連があり、」と書いたことがあります。空海の死後、その弟子達により丹生都比売神社の神領はさらに高野山の寺領になりました。
丹生一族のルーツは定かではありませんが、中国春秋時代の5~4世紀に滅びた呉・越の民が呉の王女姉妹を戴いて南九州に渡り、姉の王女大日女姫(おおひるめのみこと)はそこにとどまって天照大神の原型となり、妹の稚日女姫(わかひるめのみこと)はミズガネ(=水鉄)の女神として敬われ、丹生都比売神の原型となったといい、越の民は金属採集に長じていたといいます。参照:第298話:蛭子(ひるこ)もウツシコオ
これも秦氏の渡来伝説と酷似しています。秦氏は呉の勝なのでしょう。
山城国風土記に「而して鴨氏人は秦氏の聟なり。」とあります「聟」とは婿のことです。秦氏はカモ族(加茂、賀茂)とも同族だったのです。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
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