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于道朱君の衝撃~新羅

更新日:5月25日

第327話


新羅の重臣に昔于老(せき・うろう)という人物がいました。

当時の新羅の兵馬を握る重要人物です。大将軍であり、数々の軍功をあげたましたが、その後、倭王(おそらく崇神天皇)の怒りを買って悲劇的な最期を迎えます。


この于老に絡んで登場するのが倭の将軍「于道朱君」なる人物で、倭王(崇神天皇)の命を受けて新羅を攻め、于老(うろう)を火あぶりの刑に処したと*三国史記に書いてあります。*三国史記は朝鮮の最古の歴史書です。


新羅と倭(ヤマト:邪馬台国)との関係は、最初、倭(ヤマト)が新羅の辺境・沿岸部を侵す程度でしたが、助賁王の頃から倭と新羅との関係に大きな変化が生じ、ヤマトが新羅内部まで攻め込むようになってきました。助賁王三年(同、232年)には、倭兵が初めて内陸部まで進出し王都の金城(慶州)まで攻めて来て、新羅にとっての国難が生じました。このとき、新羅王・助賁王は自ら戦い賊を敗走させ、于老(うろう)も倭兵を壊滅させたとされています。


次いで、「新羅本紀」では沾解王三年(同、249年)四月、于老(うろう)を倭人が殺したと記載があります。于老は、その父も子も新羅国王という昔氏王族であり、新羅第一位の官職である角干の地位の大将軍という重要人物だけに、その殺害は新羅にとって屈辱的な事件でした。


于老殺害事件は、三国史記列伝・于老にも見え、倭との交渉で詳しい経緯が記されています。それによると、BC253年に倭国使臣の葛那古を新羅が接待したとき、于老は戯れに、早晩、汝の王を塩奴(塩を焼く奴)とし王妃を飯炊き女とすると言ったので、倭王は大いに怒って将軍「于道朱君」を派遣し、新羅を攻めて于老を火あぶりの刑に処した。その後、味鄒王(第十三代国王)の時代に、倭の大臣が新羅を訪問したとき、于老の妻はこの者を欺いて饗宴のうえで捕らえ、火あぶりにして怨みを晴らした。そこで、倭は怒って新羅の都・金城を攻めたが、勝利をおさめられずに帰った、と記されています。


上記に登場する葛那古が葛城襲津彦にあたることは比較的容易に想定できます。日本書紀の神功皇后六二年条(西暦262年)には、新羅が朝貢せず、襲津彦(そつひこ)を遣わして新羅を討たせたという記事があり、百済記には、大倭(ヤマト)の遣わした沙至比跪(さちひこ)が新羅を討つかわりに、新羅の美女に惑って加羅国を滅ぼしたなどの一連の事件が見え、葛城襲津彦が韓地で活動したことが裏付けられます。百済では「沙至比跪」、新羅では「葛那古」とその名が伝えられたということです。沙至比跪(さちひこ)はもちろんウツシコオです。参照:ヒコユキからウツシコオへ   ウツシコオの名前についての弁明

忌部氏(彦幸)~和歌山・名草   ヒコユキ→彦幸→ヒコサチ 幸はサチともユキとも読めます。

于道朱君」の于道は宇治でしょう。「朱君」は「宿祢」でその場合には、「于道朱君」は「宇治宿祢」(ウチスクネ=ウツシコオ)となり、すなわち内宿祢(武内宿祢)です。

ウジヒコは珍彦(ウズヒコ)=黒速=ウツシコオです。


次回に続く→ 沙至比跪(サチヒコ)

 

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今回は、私の雑念は入っていませんが、日本書紀の神功皇后六二年条を262年としたのは私です。この頃にはミマキイリヒコ(崇神天皇)が生まれていたと思われます。


多くの研究者は、神功皇后六二年条をBC382にとしていますが、ウツシコオが活躍したのはBC270年以降ではあり得ないはずです。昔于老(せき うろう)が活躍したのも240年~250年頃です。


タイトルの「于道朱君の衝撃」は宝賀寿男氏がその著書で、架空の人物だと思っていた武内宿祢が実在したと思われる文献が古代朝鮮の資料にあったことを知って衝撃を受けたからです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。


<目次>


武内宿禰(菊池容斎前賢故実』、明治時代)


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