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猿田彦は塩土老翁神

  • tootake
  • 2024年3月7日
  • 読了時間: 4分

更新日:2024年3月11日

第251話~ウツシコオは猿田彦


全国の白鬚神社の祭神は猿田彦がほとんどですが、ごくまれに猿田彦ではなく塩土老翁を祭神としている例が見られます。

塩土老翁神を祀る著名な神社としては、宮城県塩竈市の鹽竈神社が挙げられています。

鹽竈神社縁起の中には、「塩釜六所明神或曰猿田彦事勝國勝塩土老翁岐神興玉命太田命六座同体異名神也」とあり、鹽竈神社の別宮に祀られている神(塩釜六所明神)は、猿田彦、事勝國勝、塩土老翁、岐神、興玉命、太田命の6座と同体異名の神であるとされています。この6坐の神はすべて紀ノ國の名草の太田と関連がある人物です。太田市と遺跡 ~呉の勝

また神田明神末社の籠祖神社では猿田彦大神と鹽土翁神が共に祀られていることなどから、塩土老翁神は猿田彦神と関係の深い神であるということが指摘されています。


奈良県吉野郡下市町阿知賀字中屋にある白髭神社の地域は、岡峰古墳から出土した6世紀後半の日本最古の唐草文様の「黒漆太刀」が見つかったことから、最も早くに拓けた場所の一つとされています。この地域には、先進の文化と技術を携えて列島に渡来して来た人々が定住していたと考えられています。この神社から、この地域に渡り来た人々の出自を想像すると、古代朝鮮三国からやって来た人々だと考えられています。


高天原から葦原の中つ国までを照らす神がいた。その神は国津神の猿田毘古神で、天津神の御子が天降りすると聞き先導のため迎えに来たのであったと書かれています。

塩土老翁は神武東征の際の水先人です。塩土老翁は、登場人物に情報を提供し、とるべき行動を示すという重要な役割を持っています。日本書紀の神武東征の記述では、塩筒老翁が東に良い土地があると言ったことから神武天皇は東征を決意したとあります。


上記より猿田彦と塩土老翁は同一人物である可能性があります。塩土老翁神は猿田彦、太田命と同体異名の神とされています。また、江戸時代の雍州府志では、伏見稲荷の上社の神を「大田命」(おおたのみこと)としている。この神は猿田彦神の子孫で、伊勢の五十鈴原の地主神です(猿田彦神の別名ともいわれる)。 同じく江戸時代の神社啓蒙では、上社の神は「土祖神」(つちのおやのかみ)としている。土祖の土は塩土老翁神の土です。



私は、ウズヒコ、シイツネヒコ、サオツネヒコは同一人物で実は、ウツシコオだと思っています。そしてさらに塩土老翁(シオツチオジ)もウツシコオではないかと思います。

塩土老翁~浦島太郎2 とすでに書いています。


紀ノ國の名草の太田は、呉の勝 (古代朝鮮三国からやって来た人々)が最初に居ついた場所です。ウツシコオは魏の言葉を自在に話せた理由もウツシコオ自身も呉の勝だったからです。ウツシコオは長脛彦=大物主です。大物主は長脛彦

大物主は多氏です。太田氏です。太田命の6座の太田です。ウツシコオは猿田彦です。登美氏(富氏)は多氏(おおし)ではないかと私は考えています。大氏は日本最古の皇別氏族とされています。「太」「大」「意富」「飯富」「於保」とも記され、多氏のうち、畿内の本流一族は大和国十市郡飫富郷に住み、古事記の編者である太安万侶もこの一族です。そして、多氏は神武天皇の子の神八井耳命の後裔とされています。


<後記>

倭姫命世記でも「猿田彦神の裔宇治土公氏の祖大田命」とあり、大田命の祖を猿田彦命としています。伊勢の猿田彦神社の宮司は宇治土公(うじつちのきみ)という氏姓です。ウジはウツシコオの内と同じ意味です。内里のことです。北・東・南を山で囲まれて西には巨椋池が広がるという地理的な奥まりを示す「内(うち)」や、宇治を中心とした地方権力によるという政治的な意味での「内」が、「宇治」の由来と考えられています。宇治市史 1(宇治市役所、1973年)


※塩土老翁の「シホツチ」は「潮つ霊」「潮つ路」という意味で、塩土老翁神は潮流を司る神、航海の神ということです。



<多氏については下記でも説明しています。>


※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

 今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。 

※これまでの記事はこちらです。



        猿田彦

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