第203話
仁徳天皇は、前号で書いた茨田堤(まむたのつつみ)築くと同時期に難波の北の野に水路を掘削させ、大和川、河内湖の水を西(難波)の海へ排水できるようにし、堀江と名付けました。堀江の流路としては、今の大阪城のすぐ北の天満川から大川をとおり、中之島の辺りで海に出るルートが推定されています。この堀江は伝説上の存在ではなく、実際に築造されたものと考えられています。ただし、築造したのが本当に仁徳天皇だったのかについては、疑問が持たれています。
第132話で、仁徳天皇は道稚郎子(うじのわきいらつこ)の逸話を応神、仁徳の資料として転用したのではないかと書きました。仁徳天皇も架空の天皇!! (hidemaru3375.com)
そして菟道稚郎子は御牧入彦(ミ・マキ・イリヒコ:崇神天皇)ではないかとも書きました。
古事記には、次のように書かれています。「仁徳天皇の御世に、秦人を役(えだ)ちて茨田堤また茨田三宅を作り、また丸邇池(わこのいけ)、依網(よさみ)池を作り、また難波の堀江を掘りて海に通はし、、、、、」
そして、日本書紀には「崇神天皇 即位62年、灌漑事業を行って依網(よさみ)池などを開き大いに農業の便を図ったと伝えられる。」と書いてあります。
依網池(よさみのいけ、よさみいけ)は、河内国丹北郡池内村にあったと伝わる池で、大阪市住吉区にある大依羅神社周辺にありました。依網池跡碑が残っています。
古事記の崇神天皇段に「又是の御世に、依網池を作りとありるのが初出で、古事記の仁徳天皇段にも「又丸邇池(わにのいけ)・依網池を作り」とも記されています。水田の灌漑に用いられたものと想定され、住吉大社の門前まで導かれたものと思われます。歌にも歌われており、蓴菜や蓮を浮かべられるような水深の浅い池であったと思われます。ウィキペディア(Wikipedia)依網池 - Wikipedia
上記から、仁徳天皇は、崇神天皇と同一人物ではないかとする私の推測に合致しています。
更には、淀川・河内湖を支配していたのは、当時鴨族のトップとして河内湖(淀川)の水運全般を司っていたタケハニヤスが茨田堤・堀江・依網池を手掛けたのではないかとも考えています。タケハニヤスは、兄弟である大彦(大国主)に討たれ、その大彦の養子となったミマキイリヒコ(崇神天皇)が、これらの事業を引きついたという筋書きを考えています。
関連項目:聖徳太子伝説~堀江と茨田堤
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
※これまでの記事はこちらです。
<目次>
堀江のオレンジストリート
<大彦>
天香語山命~大彦も五伴緒のメンバー
大彦
大彦は、高倉下~新潟県西蒲原郡弥彦村
大彦の北陸道遠征
大彦~メスリ山古墳: 桜井市
大彦は、綏靖天皇~タケハニヤスの乱4
大国主は、大彦 ~出雲は三島
<卑弥呼>
卑弥呼は名草トベ~和歌山市
卑弥呼は萬幡豊秋津師比売
卑弥呼はイカガシコメ??
<ウツシコオ(内色許男命)=大綜麻杵(オオヘソキ)>
ウツシコオは難升米ではなかった?
八咫烏の真実~ウツシコオ陰謀の始まり
ウツシコオは魏志倭人伝に登場する難升米
<饒速日>
饒速日は大阪府茨木市出身
星の降る町~速玉は饒速日
伊都国 一大率は五十猛(饒速日)
孝元天皇は五十猛!~椿井大塚山古墳
五十猛の九州征圧
神功皇后と五十猛
饒速日が死んだ!~ウツシコオの陰謀
孝元天皇と家族たち
饒速日はスサノオの子
<五十鈴姫=媛蹈鞴五十鈴媛=富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライスズキヒメ>
ミマキ姫は、五十鈴姫~茨木市五十鈴
とよ(五十鈴姫)~桜井、豊中
お多福さんと五十鈴姫
金屋子神は五十鈴姫