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卑弥呼はヒルメ

tootake

更新日:2024年7月4日

第298話


第78話では蝦夷(えびす)という記事を書きました。


”えべっさん”で知られる、兵庫県の西宮神社の社伝では、祭神の蛭児命は伊弉諾岐命と伊弉諾美命との間に生まれた最初の子であるとされてます。しかし生まれた子は不具であったため葦の舟に入れて流されてしまいました。その後の蛭児命がどうなったかは記紀には書かれていませんが、西宮神社の社伝では、蛭児命は現在の神戸沖に漂着し、「夷三郎殿」と称されて海を司る神として祀られたという。


どうやら蝦夷(えびす)と蛭子(ひるこ)は同じ神のようです。そしてヒルコはヒルメという姉(妹)がいるようなのです。ヒルメは天照大神(アマテラス)のこととされています。

アマテラス=卑弥呼であるならヒルメはウツシコメです。ウツシコメの弟はウツシコオです。ということはヒルコはウツシコオです。またエビスは事代主とされています。事代主もウツシコオ?


ヒルメとヒルコは双子であったともされています。当時、双子は忌むべきものとする風習があり、双子だから舟に入れて流されたのです。ウツシコオとウツシコオは双子だったのかもしれません。


貴人を葦の舟に入れて流す話は、外国にもあります。旧約聖書には生まれたてのモーセをパピルスのかごに乗せてナイル川に流す話があります。たまたま水浴びしていたファラオの王女が彼を拾い、水からひきあげたのでマーシャー(ヘブライ語で「引き上げる」の意味)にちなんで「モーセ」と名づけた。モーセの姉の機転で、実の母親が乳母として王女に雇われることになった。とあります。


イカガシコオは大神神社、大和神社、石上神社などを創設した人物です。秦氏とともに日本の神道を創設しました。秦氏はユダヤとの関連が示唆しされています。もしそうだとすれば、モーセのことも良く知っていたはずです。ウツシコオの名前についての弁明


天照大神の別名が大日女(おおひるめ。大日孁とも)であり、稚日女は天照大神自身のこととも、幼名であるとも言われています。(生田神社:兵庫県神戸市中央区下山手通では幼名と説明しています)。

丹生都比賣神社(和歌山県伊都郡かつらぎ町)では、祭神で、水神・水銀鉱床の神である丹生都比賣大神(にうつひめ)の別名が稚日女尊(わかひるめ)であり、天照大神の妹神であるとしています。


和歌山で丹生都比賣といえば、名草トベのことでしょう。第92話では卑弥呼は名草トベ~和歌山市という記事を書いています。


鹿児島神宮の社史では「当社を正八幡と呼ぶのは『八幡愚童訓』に「震旦国(インドから見た中国)の大王の娘の大比留女(おおひるめ)は七歳の時に朝日の光が胸を突き、懐妊して王子を生んだ。王臣達はこれを怪しんで空船に乗せて、船のついた所を所領としたまうようにと大海に浮かべた。船はやがて日本国鎮西大隅の磯に着き、その太子を八幡と名付けたという。」との記載がある。なお、白井宗因が記した神社啓蒙では登場人物が「陳大王」と記されており、娘の名前が八幡であるとされています。


八幡宮は、 宇佐神宮(大分県宇佐市)、 筥崎宮(福岡県福岡市)そして 石清水八幡宮(京都府)です。石清水八幡宮は、まさにウツシコオとウツシコメが拠点をおいていてウツの名前の由来となった地です。八幡市里に拠点をおいたことで賀茂建角身命(三毛入野)はウツシコオ色許男命)と呼ばれるようになります。内は宇治または菟道とも表記します。参照:菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)


天照大神の名称は、もともと、オオヒルメムチノミコト(大日孁貴命)と言われ、地方の祖先神だったとも言われています。ヒルメ(孁)は、ヒミコ(卑弥呼)です。天照大神=大日孁貴命=卑弥呼となります。卑弥呼は萬幡豊秋津師比売


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。




 伊弉諾・伊弉冉 





 
 
 

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
2024年5月01日
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クメの原義に関する考察は、古くは本居宣長説として、「人の目の円く大きく、くるくるしたるゆえ」から始まり(以下、後述論文を参考)、クメ=クミ(組)説、「クメベは軍隊のムレ(群れ)」説(橘守部飯田武郷)、クメ=クマ(肥)であり、「肥人つまり異民族の部民」説(喜田貞吉)、クメ=クベ(垣)で、「宮廷の御垣」説(折口信夫)、クメ=西南島々の地名説、「大伴氏が元々来目であり、大伴の部民」説(高橋富雄)が挙げられる(後述論文 p.322.)。

上田正昭は、本居説は論外であり、クベ=垣説には注意を引くものがあるとした上で、「久米歌から考察するに、宇陀の高城の防御を施した垣の内の集団生活にこそ、久米集団の本源的様相があり、元は山人で、南大和の王権に直属するようになり、御県の神が祀られるようになった」とする[3]


「久米」とは、古代大和朝廷で軍事的な役割を果たしていた久米部に由来する名字。『日本書紀』の天孫降臨では、大伴氏の遠祖にあたる天忍日命(アメノオシヒノミコト)が、大来目命(天久米命)を率いて瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を先導して天降ったとあり、大伴氏のもとで軍事的な役割を果たしていたことがわかる。


この久米一族の本拠地が大和国久米(奈良県橿原市)で、また久米部に由来する各地の久米地名に住んだ一族も「久米」を名乗った。


久米の地は畝傍山の南側で、近鉄橿原神宮前駅の西側。今はごく普通の住宅地だが、ここには久米寺が残っている。

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tootake
2024年4月30日
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