物言えぬ皇子~阿遅須枳高日子
- tootake
- 2024年3月5日
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第249話~物言えぬ皇子
記紀では素戔嗚尊(スサノオ)が大人になっても泣いてばかりであったことが書かれています。また出雲国風土記ではアジスキタカヒコネ(高日子根)が口が利けなかったという話が載っています。
そしてまた、垂仁天皇の息子である本牟智和気御子(応神天皇)も言葉を話せなかったようで、その理由が、出雲大神の御心による祟りであると太占によって判明し、御子は大神を参拝するために出雲へ訪問します。帰る際、出雲国造の祖である岐比佐都美(キヒサツミ)が、大御食(おおみけ)を献上しようとした時に、御子が言葉を発したのです。
古写本では岐比佐都美を天津枳値可美高日子命としています。出雲国風土記には同じく「高日子」とされるアヂスキタカヒコ(阿遅須枳高日子、阿遅須伎高日子)が登場しており、顎髭が八握(やつか)に伸びても昼夜泣いてばかりで、言葉を発することができなかったと記されています。ものを言うことのできない御子(ホムチワケ=応神天皇)という点でも共通しているため、キヒサカミタカヒコ(キヒサツミ)はアヂスキタカヒコ(高日子根)の神話と習合されているのではないかとする説があります。アヂスキタカヒコ(高日子根)と同様に雷神の性格を持つとされるのも同じです。味鋤高彦根命(あじずたかひこねのみことは、賀茂建角身命(かもたけつのみみこと)と同一の神様で、下賀茂神社の祭神です。雷の
神ともされています。
古事記では、誉津別皇子は天を往く鵠を見て何かを言おうとしたので、天皇はそれを見て鵠を捕らえるように命じた。鵠は紀伊・播磨・因幡・丹波・但馬・近江・美濃・尾張・信濃・越を飛んだ末に捕らえられた。しかし皇子は鵠を得てもまだ物言わなかった。ある晩、天皇の夢に何者かが現れて「我が宮を天皇の宮のごとく造り直したなら、皇子はしゃべれるようになるだろう」と述べた。そこで天皇は太占で夢に現れたのが何者であるか占わせると、言語(物言わぬ)は出雲大神の祟りとわかった。出雲(現:島根県東部)に遣わして大神を拝させた。出雲から帰る際、御子が言葉を発したので、天皇はこれを喜び、出雲に大神の宮を造らせたといいます。
誉津別皇子は、応神天王の別称:誉田別尊(誉田別天皇)と思われます。尾張国風土記では阿麻乃彌加都比女の祟りとされています。この阿麻乃彌加都比売は出雲国風土記にみえる天甕津日女と同神とされ、そして天御梶日女は葦原色許男大神(大国主=大彦)の子である阿遅須伎高日子根神(高日子根)の妻とされているのです。
素戔嗚や本牟智和気に言語障害があったように記紀に書いてあるのは、アヂスキタカヒコ(高日子根)が幼いころの寝るときにぐずったくらいの話を借用したのでしょう。誉津別皇子については詳細に書いてあるのは、応神天皇の存在にリアリティを持たせるために高日子根の逸話を利用したのでしょう。また出雲神話をゼロから創作する過程でもこのような逸話は必要です。
関連項目:応神天皇は架空の天皇
※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。
※これまでの記事はこちらです。
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