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茨田堤

更新日:1月17日

第202話


茨田堤(まむたのつつみ/まんだのつつみ/まぶたのつつみ)は、仁徳天皇が洪水や高潮を防ぐことを目的として、淀川に茨田堤を築いたとされています。


茨田とは、守口市の全域、門真市の全域、大阪市鶴見区の一部(今津南、今津中、今津北、横堤以東)、枚方市の一部(菊丘南町、菊丘町、高塚町、岡山手町、岡東町より南西および川原町・香里ケ丘の各一部)、寝屋川市の一部(下神田町、中神田町、東神田町、清水町、錦町、東大利町、早子町、八坂町、平池町、豊野町、緑町、三井南町、成田南町、成田東が丘より北西および日之出町・本町・三井が丘の各一部)、大東市の一部(諸福、太子田、赤井、氷野、大東町より北西)のことで、私がミマキ国(邪馬台国)とする地域のことです。


茨田屯倉(まむたのみやけ)があった場所として、和名類聚抄の交野郡(かたのぐん)三宅郷の地(現在の大阪府交野市)が比定されています。


「又秦人(はたひと)をえたちて茨田堤及(また)茨田三宅を作り、又丸邇池(わにのいけ)・依網池(よさみのいけ)を作り、難波の堀江を掘りて海に通し、又小椅江(をばしのえ)を掘り、又墨江の津を定めたまひき」と日本書紀にあり、渡来氏族である秦氏や茨田氏の技術によるものであることが、現在の寝屋川市の「秦町」・「川勝町」・「太秦町」などの地名によっても伝えられています。


古墳時代中期は、大和朝廷(邪馬台国)が中国王朝および朝鮮諸国と積極的に通交し始めた時期で、交野市にあった高津(こうず)宮を難波の地に移しました。高津姫 ~岩船街道

当時、草香江(河内湖)と呼ばれる広大な湖・湿地帯が横たわっており、北東からは淀川の分流が、南からは平野川(大和川)が草香江に乱流しながら流入していました。上町台地の北からは大きな砂州が伸びており、この砂州が草香江の排水を妨げていたため、淀川分流や平野川からの流入量が増えると、洪水や高潮などの水害が発生していました。


そこで、草香江に流入する淀川分流の流路安定を目的として、堤防を築造することにしました。堤防は、当時の淀川分流の流路に沿って20km超にわたって築かれ、「茨田堤」と呼ばれるようになりました。茨田堤の痕跡は、河内平野北部を流れる古川沿いに現存しています。 京阪電車の大和田駅の東北にある堤根神社(つつみねじんじゃ)は、茨田堤の鎮守として創建されたものです。本殿の裏には、茨田堤の跡と推定される堤防の一部が現存しています。


堤根神社の祭神は彦八井耳命です。八井耳は、神武の次男です。手研耳命(たぎしみみのみこと)の弟です。手研耳命は、皇位に就くため弟の神八井耳命・神渟名川耳尊を害そうとした(タギシミミの反逆)。この陰謀を知った神八井耳・神渟名川耳(綏靖天皇)兄弟は、手研耳を襲い、これを討ちました。この際、神八井耳は手足が震えて矢を射ることができず、代わりに神渟名川耳が射て殺しました。神八井耳はこの失態を深く恥じ、弟に皇位をすすめ(第2代綏靖天皇)、自分は天皇を助けて神祇を掌ることとなったとされています。


茨田堤の工事が難渋しました。このとき天皇は「河内の人の茨田連衫子(まむたのむらじころもこ)を、河伯(川の神)に生贄として祭れば成功する」との夢を見ました。この茨田 衫子(まむた の ころものこ)が八井耳命男彦之後也とあります。茨田屯倉の管掌を行っていた人物です。茨田 衫子はヒョウタンを河に投げ入れ、「自分を欲しければ、このヒョウタンを沈めて浮き上がらせるな。もしヒョウタンが沈まなかったら、その神は偽りの神だ」と叫んで、ヒョウタンを投げ入れた。もちろんヒョウタンは沈まず、この機知によってコロモコは死を免れた。結果として工事が成功した所は、コロモコの断間(ころもこのたえま)と呼ばれました。


「コロモコの断間」と比定される地域については茨田連衫子を祭神とする「太間天満宮(たいまてんまんぐう)」や、茨田連衫子の子孫である茨田宗左衛門が開基した「退魔山西正寺(たいまさんさいしょうじ)」が建立されています。


このプログでは、神八井耳はタケハニヤスです。タケハニヤスは大彦に討たれる前は、鴨族のトップとして河内湖(淀川)の水運全般を司っていました。邪馬台国前史8~手研耳と神八井 (hidemaru3375.com)


※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。  

これまでの記事はこちらです。



堤根神社   大阪府門真市宮野町


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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Jan 22
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太間天満宮

創建年代は不詳。 『仁徳紀』に、茨田の堤を築こうとしたが、壊れる場所が二箇所あった。天皇の夢に、武藏人強頚、河内人茨田連衫子の二人を河伯に奉ればきっと出来るだろうとあった。二人が探し出されて、強頚は泣き悲しんで水に入れられ、堤は完成した。一方、衫子(ころものこ)はヒサゴ二箇を河に投げ入れ、自分を生贄にほしいのならこのヒサゴを沈めて浮かばないようにせよ。出来なければ偽りの神だから生贄にはならないと宣言した。ヒサゴは流れ去った。衫子は死ななかったが堤は完成した。時の人は二箇所を名付けて強頚の断間(たえま)、衫子の断間(たえま)と呼んだ。 この故事により、衫子の断間である当地に昔から小社を建てて祀っていた。

 近くの三井の若山に壮麗な天満宮が造営されたが、慶長三年(1598)に焼失、再建に当たって座争いが起こり、それぞれ分社を作った。太間村では衫子社に合祀した。 後に菅公の末裔の方がこの地の有力者となり、道真公を多いに祀ったので、衫子のことは忘れられてしまったので神霊を友呂岐神社から受けて祀った。友呂岐神社にも太間以外に衫子が祀られていたようだ。

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