第372話
前回では、吉備児島のことを彦狭嶋としましたが、それは私の見解で実際は、児島は建日方別のこととされています。
建日方別の名義は、「建」字は「健」字に通じてタケと読み、猛々しい意、勇猛の意とする説があります。「日方」は、万葉集に「天霧らひ日方吹くらし水茎の岡の水門に波立ち渡る」とあり、風位の名であるが、地域によって指す方角が異なり、ここでは東南風・西南風などの説があります。また、崇神紀に大田田根子の母について、「奇日方天日方武茅渟祇(くしひかたあまつひかたたけちぬつみ)」という名が挙がっています。建日方別(たけひかたわけ)は、崇神紀に大田田根子の母について、「奇日方天日方武茅渟祇(くしひかたあまつひかたたけちぬつみ)」という名が挙がっています。建日方別 – 國學院大學 古典文化学事業 (kokugakuin.ac.jp)
天日方奇日方命は陶津耳命の別名とされており、別名として櫛御方命、武日方命、阿田都久志尼命、鴨主命、久斯比賀多命、そして八咫烏、鴨武角身命(やたからすかもたけつのみのみこと)があります。山城の賀茂氏(賀茂県主)や葛城国造の始祖であり、賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神で、つまり建日方別=彦狭嶋=天日方奇日方命=建甕槌=ウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)だということです。児島は児島坂出ルートつまり三つある本州ー四国連絡橋で真っ先につくられたところです。これだけでも児島の重要性がわかると思います。
別(ワケ)はワクという分治の意味の動詞から発して、天皇統治の発展段階にふさわしい称号として採用、ないし創作されて伝承上の神名や人名に対して附加されたものと見なし、古事記の編集理念に基づいた称号体系の一環と考える説もあります。
吉備児島が国生み神話に登場することについては、吉備国と政府中央との歴史的な関係が考察されています。王権の支配下にありながら、反抗を重ねて服従を困難にしていた吉備の勢力を制圧し、吉備を完全にヤマト王権の領土に組み込んだとされる六世紀、児島を吉備統治の拠点となし、また、当時動揺していた朝鮮半島経営のための瀬戸内海航路の要衝として重視し、その時代の児島の、領土としての重要性が神話に反映されたと思われます。また一方、吉備の服従に困難の伴ったことが、その支配の重大さを強く認識させることとなり、支配の正当性を述べる政治的な意図から、吉備の中心となる児島がその象徴として国生み神話の中に位置づけられるようになったとする説もあります。
彦狭嶋命=吉備津彦=南方刀美神(タケミナカタ)です。
さらに言えば、塩土老翁神 うず彦(椎根津彦) 塩土老翁 猿田彦 ウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)です。そして伊勢津彦も忘れてはいけません。伊勢津彦も瀬戸内海の覇者です。 伊勢津彦はタケミナカタ
吉備児島は瀬戸内海のど真ん中です。吉備児島は旧海軍の呉のようなものだったのでしょう。呉も瀬戸内海の要衝です。イタテ神を祀る紀臣(キノオミ)一族は、津島半島の水軍として活躍しています。イタテ(五十猛)もウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)です。五十猛の九州征圧 五十猛彦は饒速日! 神功皇后と五十猛 五十猛と五瀬命
伊耶那岐神・伊耶那美神が生んだ大八島国の第四の島、筑紫島は、身一つに面が四つあり、その四つのうち、筑紫国を白日別といい、豊国を豊日別といい、肥国を建日向日豊久士比泥別といい、熊曾国を建日別といいます。古事記の国生みの筑紫島の四箇国に、実態の不明確な熊曾国が含まれながら、天孫降臨が果たされた聖地であるはずの日向国が無いことに疑問が持たれています。
建日方別の別名である天日方奇日方命には日方が2つも入っています。
「天日方奇日方命」の「日方」が「日向」と関連しているかどうかについては、特定の文献や神話によって異なる見解がありますが、一部の説では、「日方」が「日向」を指すとされています。日向は日本の地名で、現在の宮崎県を指すとすべての研究者は思っているようですが、このブログでは、日向は守口市です。 日向は大阪府守口市
守口市日向町〒570-0023。大企業のパナソニックのある所の隣です。日向という地名は各地にあります。たまたま守口市にも日向という地名があっただけと思われる方もいらっしゃるでしょう。しかし守口市日向の近くに大日と八雲があり、対岸に味舌(マシタ)があります。ここまで揃うと偶然では済まされません。大日は大目、味舌は細姫でいずれも孝霊天皇=スサノオの関連のある地です。八雲はスサノオが新婚生活を営んだ地です。八雲〒570-0008 櫛名田比売2~八雲は守口市
天孫降臨が果たされた聖地であるはずの日向国は、北摂です。邪馬台国は北摂!!
==============================
<後記>2924.7.13
日方は、- 和歌山県海南市日方のことと思われます。参照:猿丸幻想(2)~柿本人麻呂
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
※これまでの記事はこちらです。
<目次>
岡山県倉敷市下津井田之浦一丁目~ 香川県坂出市櫃石
佐々布久神社(ささふくじんじゃ)は、島根県安来市に鎮座しています。この神社は、大己貴尊(おおなむちのみこと)を主祭神としており、創立年代は不詳ですが、伝説によれば考霊天皇が関連しています。考霊天皇は岡山市吉備町に鎮座する吉備津神社の主祭神であり、吉備津彦命の父神でもあります。伯耆国の伝説によれば、日野川上流の日南町鬼住山の賊を平定した後、天皇と地方の代表神である素盞鳴尊を併せて祀ったものが東楽々福神社、皇后細姫を祀ったものが西楽々福神社とされています12。御神徳は脚足の守護神とされています。佐々布久神社の名前は、考霊天皇の幼名である楽々清有彦命に由来しています。訪れる際は、島根県安来市広瀬町石原582番地にある佐々布久神社を訪れてみてください34
恵比寿と笹 うずめと笹 七夕と笹
日笠山貝塚 - Wikipedia
<邪馬台国の新常識>
ウガヤフキアエズのミコト
邪馬台国の誕生
徐福伝説と「呉の勝」
日向は大阪府守口市
櫛名田比売2~八雲は守口市
ウツシコオの名前についての弁明
多氏と長脛彦
饒速日と長脛彦
<河川は古代の高速道路>
市寸島比売は厳島!~広島・三島 )
真舌媛は、宗像三女神!~三島(茨木市)
全ての道は三島に通じる。
<欠史八代の天皇の正体>
素戔嗚(スサノオ)は、孝霊天皇
丹・朱を求めた天皇たち
<大彦>
大国主は、大彦
大彦
大彦は、高倉下~新潟県西蒲原郡弥彦村
大彦の北陸道遠征
大彦~メスリ山古墳: 桜井市
大彦は、綏靖天皇~タケハニヤスの乱4
大国主は、大彦 ~出雲は三島
<卑弥呼>
卑弥呼は名草トベ~和歌山市
卑弥呼は萬幡豊秋津師比売
<ウツシコオ(内色許男命)=大綜麻杵(オオヘソキ)>
ウツシコオは難升米ではなかった?
ウツシコオは魏志倭人伝に登場する難升米
八咫烏の真実~ウツシコオ陰謀の始まり
<饒速日>
饒速日は大阪府茨木市出身
星の降る町~速玉は饒速日
伊都国 一大率は五十猛(饒速日)
孝元天皇は五十猛!~椿井大塚山古墳
五十猛の九州征圧
神功皇后と五十猛
饒速日が死んだ!~ウツシコオの陰謀
孝元天皇と家族たち
饒速日はスサノオの子