第379話
宇佐神宮(うさじんぐう)は、大分県宇佐市にあり、全国最多の約44,000社ある八幡宮の総本社です。養老4年(720年)大隅、日向の隼人が反乱したため、朝廷は大軍を派遣するとともに宇佐八幡神に祈願してこれを討伐しました。しかし官軍に殺された隼人の祟りでさまざまな病や災いがあったため、宇佐八幡神は隼人の霊を鎮めるため金光明経の教えに基づいて「毎年放生せよ」と託宣し、これにより魚や鳥などを解き放って生を全うさせる仏教儀礼である放生会が行われるようになりました。
法蓮(ほうれん)は、宇佐神宮の神宮寺であった弥勒寺の初代別当で、英彦山や国東六郷満山で修行したという修験者的な人物です。法蓮は、北辰の神の導きにより宇佐神宮(宇佐八幡)の地に八幡神を祭ったとされています。
元々この地に祭られていたのは、北辰の神だといわれています。現在でも境内に北辰神社が有り、祭神は比売大神の脇殿といわれていますが、実は猿田彦=ウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)です。
北辰とは北斗七星・北極星のことで、妙見さんです。大阪では妙見さんと言えば、能勢ですが交野市にも妙見さんがあります。星田妙見宮(小松神社)です。妙見とは七曜の星(北斗七星)のことで、能勢の妙見さんも、交野の妙見さんも大昔に隕石が落ちたとされる伝説が残っています。この地は、饒速日が天下ったとされる岩船神社の近くです。高倉下(大彦)が住んでいたとおもわれる倉治も交野市です。第110話:星の降る町~速玉は饒速日
北斗七星は、旅人の方向を示す大切な指標です。ウツシコオは旅の神、道祖神でもあります。
猿田彦大神と北辰の神にはいくつか共通点があります。具体的には:
道案内の役割: 両神は道案内や導きの役割を果たしています。猿田彦大神は邇邇芸命を高千穂峰に導いたことで知られており、北辰の神も旅行者や航海者の安全を守る役割を担っています。
新しい道を切り開く象徴: 猿田彦大神は新しい道を切り開く象徴とされており、北辰の神も新しい航路を示す星座として重要視されています。
道祖神としての信仰: 両神は道祖神として崇められており、全国各地で「猿田彦神」や「北辰神」の名で祀られています。参照:天道根命は道祖神=ウツシコオ
宇佐の地は、豊国で英彦山があります。英彦山の彦もウツシコオでしょう。英彦山の由来は日子(彦)の山という意味です。宇佐家の伝承では、宇佐は兎神で月神だとされています。
月神は月読(つくよみ)のことでしょう。第338話:月読命(ツクヨミ)
豊日別宮(とよひわけぐう)は、福岡県行橋市にある神社です。かつては左留多比古社(サルタヒコ=猿田彦)、豊日別国魂宮などとも呼ばれていました。欽明天皇即位の年(532年)、神が老翁の姿と化して現われ、「我は猿田彦の大神なり。天皇を護り、臣民の繁栄と安寧、五穀豊穣、病平癒の神である。」と告げた。翌日、大神は豊日別宮に降臨し、「猿田彦は天照大神の分神なり。これにより豊日別大神を本宮とし猿田彦を以て別宮となす。」と告げたことから社殿を建てて祀ったのが本社の起源とされています。
放生会の際に、朝廷の勅使が一旦、豊日別宮に官幣を奉安したことから官幣宮と呼ばれるようになったといいます。幣帛(へいはく)とは、神道の祭祀において神に奉献する、神饌以外のものの総称で、広義には神饌をも含み、みてぐら、幣物(へいもつ)とも言いいます。
「帛」は布を意味し、古代では貴重だった布帛が神への捧げ物の中心だったことを示すものです。延喜式の祝詞の条に記される幣帛の品目としては、布帛、衣服、武具、神酒、神饌などがある。幣帛は捧げ物であると同時に神の依り代とも考えられていたため、串の先に紙垂を挟んだ依り代や祓具としての幣束・御幣、大麻なども「幣帛」と呼びます。
官幣奉安の間、田川郡香春町採銅所では宇佐神宮に奉納する神鏡を鋳造しそれを豊日別大神に併せて祭り、本社の神輿とともに陣列を組んで宇佐への神幸が行われました。
実は、放生会のきっかけとなった大隅、日向の隼人が反乱自体がもし事実だとすればその原因は、元々、近畿にいた隼人族の南九州への集団移住ではないかと思います。
7世紀から8世紀にかけて、朝廷は、他地域から南九州への集団移住を行ったという記録があります。現在の鹿児島県一帯への移住民は当地の総人口の7分の1に相当する9千人前後と推定されています。
第304話:隼人族は呉の勝
第305話:隼人族は疑似民族集団
第306話:阿多隼人(薩摩隼人)
第307話:大隅隼人は京都府京田辺市
第308話: 八幡神はヒルメ
上記で、すでに書いたように、大和国家は、応神天皇が実在の人物であることを示すために宇佐に八幡宮と作りました。ところが大隅の方が隼人とゆかりがあります。この隼人は他の地域から移住させられ隼人と名乗らされた人々です。7世紀から8世紀にかけて、朝廷は、他地域から南九州への集団移住を行ったという記録があります。
ところで前回で書いた宇都宮(ウチ=兎)の宇都宮二荒山神社の祭神は、豊城入彦命です。
この豊城入彦命は、豊に入ってきた彦ということです。まだ検証の途中ですが、この時代の彦(日子)はすべてウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)です。参照:第363話:彦はすべて、ウツシコオ
第369話:神武西征~健磐龍命 で述べた健磐龍命(たけいわたつのみこと)もウツシコオ=猿田彦でした。猿田彦=健磐龍命と豊城入彦命は同一人物でウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)です。
前回:猿丸幻想(3)~宇都宮は兎の都 で最後に登場した宇佐氏は、神武朝の菟狭津彦命(うさつひこのみこと)を家祖とし、宇佐国造を世襲したとされています。この菟狭津彦命も猿田彦=ウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)です。菟狭(ウサツ)はウツシコオのウツで、菟狭彦もウツシコオです。(後日検証予定です。)
宇佐家古伝によると菟狭津彦命は神武天皇の子で、兄弟が御諸別命(みもろわけ)と言い、御諸別命は崇神天皇の子、豊城入彦命として記されています。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
※これまでの記事はこちらです。
<目次>
馬子 ウマシマジ
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<*注>
文献上の確実な史実として初めて「隼人」が登場するのは、『日本書紀』に見える682年(7世紀後半)。つまり邪馬台国の時代はもちろん、神功皇后、応神天皇の頃には、隼人(熊襲)は存在していません。
原口耕一郎による2018年の論文によると、9世紀初頭以降、南九州の住民を「隼人」と呼称する例は、史料上ひとつもみられなくなることが確認されている。よって南九州の人々が隼人と呼ばれたのはわずか120年間ほどのことにすぎないことが指摘されている。
特に山城国(京都府)南部に多く定住し、大隅隼人の住んだ現在の京都府京田辺市には「大住(おおすみ)」の地名が残る。中世には「隼人荘」と呼ばれるなど、奈良盆地南部と共に近畿における隼人の二大居住地であり、武埴安彦命の伝承に基本的に反映しているものとされる。 隼人 - Wikipedia
<邪馬台国の新常識>
ウガヤフキアエズのミコト
邪馬台国の誕生
徐福伝説と「呉の勝」
日向は大阪府守口市
櫛名田比売2~八雲は守口市
ウツシコオの名前についての弁明
多氏と長脛彦
饒速日と長脛彦
<河川は古代の高速道路>
市寸島比売は厳島!~広島・三島 )
真舌媛は、宗像三女神!~三島(茨木市)
全ての道は三島に通じる。
<欠史八代の天皇の正体>
素戔嗚(スサノオ)は、孝霊天皇
丹・朱を求めた天皇たち
<大彦>
大国主は、大彦
大彦
大彦は、高倉下~新潟県西蒲原郡弥彦村
大彦の北陸道遠征
大彦~メスリ山古墳: 桜井市
大彦は、綏靖天皇~タケハニヤスの乱4
大国主は、大彦 ~出雲は三島
<卑弥呼>
卑弥呼は名草トベ~和歌山市
卑弥呼は萬幡豊秋津師比売
<ウツシコオ(内色許男命)=大綜麻杵(オオヘソキ)>
ウツシコオは難升米ではなかった?
ウツシコオは魏志倭人伝に登場する難升米
八咫烏の真実~ウツシコオ陰謀の始まり
<饒速日>
饒速日は大阪府茨木市出身
星の降る町~速玉は饒速日
伊都国 一大率は五十猛(饒速日)
孝元天皇は五十猛!~椿井大塚山古墳
五十猛の九州征圧
神功皇后と五十猛
饒速日が死んだ!~ウツシコオの陰謀
孝元天皇と家族たち