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古代史研究者の勘違い ~枚方市牧野

更新日:5月8日

第13話


分かりました。古代史の研究者たちが、なぜ宇宙遊泳してるかが!!

崇神の名はミマキイリヒコ(御牧入彦) ミマ・キではなく、ミ・マキです。多くの研究者たちが完全に勘違いしている任那(ミマナ)とは全く関係がありません。と以前書きました。短絡的な学者が何の根拠もなく、勝手に妄想したのだと思っていました(いわゆる俗手というやつです)。しかし学者たちには根拠があったのです。

『日本書紀』では垂仁天皇2年条の分注として下記の所伝が記載されています。


第11代垂仁天皇は、都怒我阿羅斯等が帰国するとき、先代崇神天皇の諱である「みまな」(任那、弥摩那、彌摩那)を国名にするよう詔し、赤絹を下賜したと書いてあるのです。

都怒我阿羅斯等はツヌガアラシヒト(角のある人)で、垂仁天皇の時に朝鮮から崇神天皇を慕ってきて日本に渡って来た人です。様々な伝説がありますが、福井県の敦賀(ツルガ)の地名の元となった人です。明日、福井県に行くので敦賀のことを調べていて、先ほどの記述を発見しました。

任那(みまな)は、古代に存在した朝鮮半島南部の地域を指す歴史地理的地名です。主として『日本書紀』に代表される日本の史料において用いられる他、広開土王碑文等に用例があります。古代史の研究者たちは、上記の記述でミマキイリヒコ(崇神)の名をミマ・キと思い込み、崇神天皇は、朝鮮から騎馬軍団を率いてやってきて、邪馬台国を滅ぼしヤマトを平定したという筋書きを思いついたのです。そしてそれが学会でも定着してしまったのです。


上記の記述では、ミマキが先にあり朝鮮のミナマが後付けになっています。これも問題です。韓国の史学者、考古学者、マスコミ、政治家も、古代朝鮮の優位性を信じて疑わないから、「任那日本府などなかった」と主張し、『日本書紀』が「任那日本府」を捏造したと主張しており、近年、朝鮮半島の考古学の進展によって、任那日本府に関して、日韓の史学者に、共通の認識が生まれ、任那日本府は、6世紀前半に倭の外交使節が短期滞在した「安羅倭臣館」にすぎないというのです。(朴天秀『加耶と倭』講談社選書メチエ)。

私は、邪馬台国はミマキ国だと言いたいだけですから、この問題に首を突っ込む気はありません。


ミマキ国はあったのです。御牧小学校も実在します。

日本書紀は、前にも言ったように崇神天皇が崩御してから、およそ500年後に書かれたものです。意図的に事実をゆがめて記載されてる箇所も多くあります。

無知な点もあります。古事記で「南方」をちゃんと地名と認識しているのに、日本書紀では

「なんぽう」と読み方角のことと勘違いしているのです。

大阪の人は、新大阪駅の近くに西中島南方駅あるので「みなみかた」と読めます。チャンバラトリオのリーダーも南方さんでした。奈良の盆地にいる人には読めないかもしれませんね。(後記:南方は、邪馬台国にとって重要な地域でした。南方刀美神(タケミナカタ) ~三島の溝杭3代目)


果たして、ミナマと書いた日本書紀は、意図的なのか、無知なのか、大和朝廷(邪馬台国)は、ミマキ国から奈良盆地に移動してきて500年、忘れてしまったのでしょう。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。



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