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狗奴国と女王国

更新日:7月3日

第366話


狗奴国(くぬのくに)は、三国志のうちの魏書の中の「東夷伝倭人の条」に記載されている邪馬台国と対立していた倭人の国です。元々は奴国の分国であるという説もあります。


男王卑弥弓呼(ひみここ:ひこみこ)がおり、官を狗古智卑狗(くこちひこ)、「くくちひこ」(菊池彦)「かわちひこ」(河内彦)とする説があります。邪馬台国の女王卑弥呼と卑弥弓呼は「素より和せず」とあり、敵対状態だったようです。この戦いの最中に卑弥呼が死去したといいます。


その南に狗奴国あり。男子を王となす、その官に狗古智卑狗あり。女王に属さず。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼ともとより和せず、倭の載斯・烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。

「其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不属女王 」


第363話:彦・日子はすべて、で記紀でヒコ(彦)が付く人物は、ウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王であるとしました。ですから狗古智卑狗もウツシコオです。

狗奴とは国=大和朝廷(邪馬台国)のことです。邪馬台国は北摂!! 邪馬台国は巨椋池

ウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王は大和朝廷の大君(おおきみ)です。女王はウツシコオの姉の卑弥呼(ウツシコメ)です。

女王国は伊勢遺跡~瀬田川でしょう。


伊勢遺跡は大規模な遺跡であるにも関わらず、大勢の人たちが日常的に生活していたような痕跡が見当たりません。大型建物群や周辺の溝からは生活遺物が出てこないのです。その当時の墓地も見つかっていません。このような事実からも、この場所が特殊な位置づけの遺跡であることが推定されます。中央部の建物群は、魏志倭人伝に【宮室楼観城柵厳設】と書かれている「卑弥呼の居処」と似た構成となっています。このような建物群からなる遺跡は、卑弥呼が倭国王となる前段階を知る上で、全国的に見ても非常に貴重であることから、平成24年1月に国史跡に指定されました。


倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王:卑弥弓呼ともとより和せず、とは元々は仲が良かったのではないかと思わせる書き方です。少なくとも卑弥呼と卑弥弓呼は以前からの知り合いであったことは間違いないでしょう。ウツシコオとウツシコメ、イカガシコオ(伊香色雄命)とイカガシコメの例でわかるようにと姉弟はおなじ名前です。ですから卑弥弓呼(ひみここ)と卑弥呼は、姉弟なのです。


ウツシコオとウツシコメは、ともに大和(邪馬台国)を治めていましたが、全く意見が合わないこともあったのでしょう。おそらく外交問題をめぐってウツシコオとウツシコメ=スサノオと卑弥呼=卑弥弓呼と卑弥呼はお互いの意見を押し通そうとし、紛争になってしまったと思われます。卑弥呼をモデルに創作された神功皇后は朝鮮出兵(三韓征伐)で仲哀天皇ともめています。


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<ここからは小説>


魏志倭人伝にある女王国は、第362話で書いた滋賀県の栗東市にある伊勢遺跡 だと私は思います。伊勢遺跡~瀬田川が京治バイパス


246年(魏の正始6年)卑弥呼は、夜のうちに兵を率いて栗東市から野洲川から琵琶湖をへて瀬田川を下ります。瀬田川が木津川になる辺りからはウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王の本拠地です。卑弥呼は兵を陸路を行く部隊とそのまま木津川を下る部隊に分け、卑弥呼自身は陸路でウツシコオのいる交野・枚方を目指します。


木津川を下った部隊は、巨椋池に展開していた玖賀耳之御笠(クガミミを打ち取りますが、陸路をいく卑弥呼の部隊は、ウツシコオがかねてから用意していた騎馬隊に祝園(ほふりその)辺りで撃破はされ、卑弥呼は以って死にます。卑彌呼以死

卑弥呼は吾田媛~ハニヤス姫です。


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<後記>

恭仁京は、奈良時代の都城ですが、”くにきょう・くにのみやこ”と読みます。

山背国相楽郡(現在の京都府木津川市加茂地区)にあります。正式名称は「大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)」。

京都府木津川市加茂は、何度も述べているように、ウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王の本拠地です。恭仁は狗奴で「やまとのくにのおおみや」ではないでしょうか。




    


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。


<目次>





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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
05. Juli
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陸耳御笠と戦った日本得魂命


陸耳御笠と戦った日本得魂命: この人が卑弥呼 (kodai.sblo.jp)


 『勘注系図』八世孫日本得魂命の注記で次のように記す。


「崇神の時代当国の青葉山中に土蜘(つちぐも)あり。陸耳御笠(くがみみのみかさ)の者、その状(さま)人民(おおみたから)を賊(ぬすむ)。ゆえに日子坐王(ひこいますのきみ)勅(ちょく)をたてまつりこれを伐(う)つ。時にこの命等仕えたてまつる。余社之大山(よさのおおやま)に到り遂にこれを誅(ちゅう)す。」

日子坐王が陸耳御笠を討った伝承は『古事記』にも記される。


崇神の時代の事として『日子坐王者を旦波国に遣わし玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を殺すを命ず。』とする。


日子坐命という王権の皇子が、直接戦闘を指揮している。大和王権はここ若狭から東の勢力と対峙していたのである。

日子坐王や日本得魂命(やまとえたまのみこと)達と戦った相手は、陸耳御笠と、匹女(ひきめ)とよばれる一党で、場所は青葉山から由良川のほとりである。青葉山は福井県高浜町と京都府舞鶴市との境に位置する、若狭と丹後との境でもある。


この陸(くが・玖賀)こそ『魏志』倭人伝が伝える、邪馬台国と激しく争っていた、狗奴国に他ならない。

したがって卑弥呼の時代から続いていた狗奴国との戦いは、崇神の時代おおよそ三世紀後半の半ばに、大和朝廷側の勝利で決着が着くのである。

『勘注系図』の伝承は丹後風土記残欠にも記される。

【川守郷】

川守と名付ける所以は、昔、日子坐王、土蜘(つちくも) 陸耳匹女(ひきめ)たちを逐って、蟻道郷の血原に到ったとき、先ず、 土蜘匹女を殺した。それで、そこを血原と云う。その時、陸耳は降伏しよう としたが、日本得玉命が川下から追って来て、まさに迫ろうとした時、 陸耳は忽ち川を越えて逃れた。それで、官軍は楯を連ねて川を守った。 矢を放つこと蝗の飛ぶが如し。陸耳の党、矢当たりて死ぬ多し。(死体 は)流れて去る。それで其の地を、川守と云う。亦、官軍の駐屯地を 今でも川守楯原と云う。その時、船一艘が忽ちに(欠字、字数不明) 其の川を降った。これで、土蜘を駆逐した。遂に、由良の港に到った。 土蜘の行方が判らなかった。そこで、日子坐王は陸地で礫を拾い、 これを占った。それで、陸耳が与佐の大山に登ったことを知った。それで、 其の地を石占と云う。亦、その船を楯原に祭って船戸神となづけた。

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
03. Juli
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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
01. Juli
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乳早


「ちはやぶる(ちはやふる)」とは、荒々しくふるまうことを意味する「いちはやぶ」という動詞から出た言葉と言われています。

『時代別国語大辞典 上代編』(三省堂、上代語辞典編集委員会 編集、1985年)を引いてみると、「勢いある。強暴な。あらあらしい。連体修飾語の例のみ。」とあり、『万葉集』と『古事記』の例が載っています。


ちはやぶる 金(かね)の岬(みさき)を 過ぎぬとも 我(われ)は忘れじ 志賀(しか)の皇神(すめかみ)


恐ろしい難所 金の岬は 過ぎたけれど わたしは忘れまい 志賀の海神(かいじん)のご加護を

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
01. Juli
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