第332話
椿井政隆は、山城国相楽郡椿井村(現在の京都府木津川市)で明和7(1770)年に生まれ、天保8(1837)年に没したという記録があります。
椿井政隆は近江国(滋賀県)で、精力的に活動し、近江国坂田郡を本貫とする息長氏の知識を得たと思われます。これを元に、山代大筒木真若王や迦邇米雷王など当地に関わりのあるかもしれない人物が息長氏に連なることから着想を得て、当地一帯の寺社の由緒に息長氏をねじこむことでより由緒正しく見えるよう細工したようです。
前号:朱智神社~迦邇米雷王 で述べた京都府京田辺市の観音寺を「中世までは普賢寺あるいは普賢教法寺と称していた」ことにし、また「朱智神社をその鎮守である」とし、さらに寺に「息長山」の山号を与えました。そして、「息長」や「朱智」という苗字の侍を祖とする系図を量産しました。息長という名詞が登場するのは、椿井政隆が若い頃に近江国膳所藩で活動しており、その時に得た息長氏の知識を得ていたからです。逆に言うと「南山城には息長氏が存在していなかった」ことを表しています。
椿井政隆は、自身が作成した偽書・「椿井文書」において、現在の米原市で朝妻川と呼ばれていた川に「息長川」の名称を与え、「朝嬬皇女墳」を世継村に、「星川稚宮皇子墳」を朝妻川の対岸の朝妻村に「設置」しました。朝妻川は天の川とも呼ばれていたので、椿井は七夕伝説を作り出そうとしたのです。湖北の七夕伝承は椿井文書由来のものです。
ただし前回の「朱智神社」の祭神を「迦爾米雷王」と考察したのは度会延経の著した神名帳考証が最初と思われ、椿井政隆はこれを参考にしたものと考えられます。
一方で、椿井文書に基づく社伝では迦爾米雷王を息長氏の祖と位置付けていますが、一般に息長氏の祖とされる人物は「意富富杼王」です。
仲哀天皇と神功皇后 - 応神天皇 - 若野毛二俣王 - 意富富杼王の系譜となっています。
一方、朱智神社は江戸時代には「牛頭天王社」と称し、当地の地名を「天王」と呼ぶのはこれに因みます。平安時代後期の作とされる京都府指定文化財の木造牛頭天王立像が伝えられており、古くから牛頭天王として祀られていたことは確実です。
椿井文書の内容の中には実際にあった伝承も組み込まれているとの指摘もあり、これが話を更にややこしくしています。
椿井文書に基づく社伝では朱智神社から京都の八坂神社へ勧請したとしていますが、当然ながら八坂神社ではそのような由緒を伝えておらず、「榊遷し」も記録がありません。
しかし、かつては毎年「榊遷し」の行事が行われていたと伝えられています。
私は、この辺り(京都府京田辺市天王)は天王すなわち素戔嗚(スサノオ)が支配していたものと思います。朱智神社の朱智の朱とは水銀のことで鏡造りには欠かせない材質です。おそらくこの地を簒奪したのが、和歌山県の名草からやって来たウガヤフキアエズの一族、すなわちウツシコオ(内色許男命)一族です。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
※これまでの記事はこちらです。
<目次>
「興福寺官務牒疏」興福寺本 椿井文書 (biglobe.ne.jp)
<邪馬台国の新常識>
ウガヤフキアエズのミコト
邪馬台国の誕生
徐福伝説と「呉の勝」
日向は大阪府守口市
櫛名田比売2~八雲は守口市
ウツシコオの名前についての弁明
多氏と長脛彦
饒速日と長脛彦
<河川は古代の高速道路>
市寸島比売は厳島!~広島・三島 )
真舌媛は、宗像三女神!~三島(茨木市)
全ての道は三島に通じる。
<欠史八代の天皇の正体>
素戔嗚(スサノオ)は、孝霊天皇
丹・朱を求めた天皇たち
<大彦>
大国主は、大彦
大彦
大彦は、高倉下~新潟県西蒲原郡弥彦村
大彦の北陸道遠征
大彦~メスリ山古墳: 桜井市
大彦は、綏靖天皇~タケハニヤスの乱4
大国主は、大彦 ~出雲は三島
<卑弥呼>
卑弥呼は名草トベ~和歌山市
卑弥呼は萬幡豊秋津師比売
<ウツシコオ(内色許男命)=大綜麻杵(オオヘソキ)>
ウツシコオは難升米ではなかった?
ウツシコオは魏志倭人伝に登場する難升米
八咫烏の真実~ウツシコオ陰謀の始まり
<饒速日>
饒速日は大阪府茨木市出身
星の降る町~速玉は饒速日
伊都国 一大率は五十猛(饒速日)
孝元天皇は五十猛!~椿井大塚山古墳
五十猛の九州征圧
神功皇后と五十猛
饒速日が死んだ!~ウツシコオの陰謀
孝元天皇と家族たち
饒速日はスサノオの子
<タケハニヤスの乱>
:タケハニヤスの乱1
:タケハニヤスの乱2 ~阿太(奈良県五條市)
:タケハニヤスの乱3 ~小人国
:タケハニヤスの乱4~大彦は、綏靖天皇
:タケハニヤスの乱最終章