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山崎津と玖賀耳之御笠

第243話


山崎津は、淀津からさらに南に位置しています。よりウツシコオの内里に近い場所です。

山崎津も水運の拠点として、また物資の集散地として、周辺地域を結ぶ重要な役割を果たしていました。前号で述べた淀津遺構と山崎津は、邪馬台国周辺の水運と物流において密接に関連していたと言えます。当時淀川は広大な河内湖と繋がっており、さらに瀬戸内海へ通じる航路の大動脈で、「淀・山崎」は邪馬台国と海とをつなぐ出入り口でもありました。南方(みなみかた)は大阪湾から河内湖(淀川)に入る要衝です。南方刀美神(タケミナカタ) ~三島の溝杭3代目


私のような近隣の物は大を付けて大山崎と呼んでいます。旧名は山代国乙訓郡。河の北という意味で「河陽(かや、かよう)」の別名があります。大阪府の島本町山崎から京都府の大山崎町にかけての山崎の地は名水で知られ、日本における醤油発祥の地である石清水(いわしみず)の名の元となった湧き水がありました。現在でもサントリーのウイスキーの工場があります。 また山崎駅前の妙喜庵には、千利休の現存する二例の茶室作例の一つである茶室待庵(国宝)が現存しています。


日本書紀仁徳天皇 (=崇神天皇)の条には南紀州か ら大津(難 波)に 帰航 し、上陸しないで淀 川を溯って山背 川(山代:木 津川)に入 り、更 に倭(この場合は奈良県)へ 行 った ことを示す記事 があります。このコースは、紀ノ國(木の国)の名草からウツシコメ(名草姫)が三島(邪馬台国)へ至ったコースと同じです。鴨王!邪馬台国に進出


山代風土記逸文の加茂神社由来説話によれば、賀茂建角身命は神武天皇を先導してヤマトの葛城山に宿り、そこから次第に鴨川の上流葛城に移ったとされています。賀茂建角身命は八咫烏鴨武角身命(やたからすかもたけつのみのみこと)です。山城賀茂氏(賀茂県主)葛城国造の始祖であり、賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神として知らています。


この大山崎は山城国乙訓郡は古墳時代、つまり邪馬台国の時代は亀岡が中心の丹波(但馬=投馬国)の入り口で丹波に属していたと考えられます。今でも丹波橋という駅があります。桂川の水運を押えるていたのがクガ耳(玖賀耳之御笠)です。


この久我から少し山側には乙訓古墳群があります。元稲荷山からは、円筒埴輪の初期の特殊なものが出土しており、この地域が他の地域とは独立した存在であることをうかがわせます。また寺戸大塚古墳では出土した三角縁神獣鏡が椿井大塚山古墳のものと同氾関係(同じ鋳型から作られた)とされ、椿井大塚山古墳の被葬者の支配下にあった者の墓だと考えられています。


椿井大塚山古墳の文献を見直してみると、赤城猛彦先生は「邪馬台国発見史」の中(P227)被葬者の候補者として、十分に検証されたうえで

    イ)卑弥呼の弟、ロ)難升米と書かれておられました。ハ)~へ)は省略

ウツシコオは、卑弥呼の弟です。ウツシコオは、難升米です。内里は山崎津の近所です。

寺戸大塚古墳の被葬者はクガ耳(玖賀耳之御笠)ではないでしょうか。


    :彦国葺~タケハニヤスを射った男 :クガミミ殺害


※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

 今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。 

※これまでの記事はこちらです。






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