三角縁神獣鏡と黄巾の乱
- tootake
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第682話 #鬼道と神仙思想 #呉の勝 #五斗米道
邪馬台国の卑弥呼が魏から下賜された銅鏡ではないかと注目を集めてきた鏡が三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)です。
名称は鏡の縁の断面が三角形をしていることと、鏡の裏側である鏡背に神仙や霊獣が彫られていることに由来しています。神仙は西王母や東王父などの仙人、霊獣は白虎や龍など空想上の獣で、どちらも中国の神話に登場するキャラクターです。北部から東北南部までの広範囲の地域で500面以上出土しています。なかでも奈良・京都・兵庫・大阪が突出して多く、このブログではお馴染みの京都府椿井大塚山古墳からは32面の三角縁神獣鏡が出土しています。~彦狭知の物語(11)~椿井大塚山古墳:椿井大塚山古墳:桜井茶臼山古墳と椿井大塚山古墳
銅鏡が墓の副葬品となったのは、弥生時代中期にあたる紀元前3世紀頃のことです。九州北部の墓には、内行花文鏡や方格規矩鏡といった中国・漢代の鏡が副葬されました。
古墳時代になると、内行花文鏡や方格規矩鏡に加え、画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡といった鏡が、近畿地方を中心に日本列島各地の古墳に納められるようになります。
「三角縁神獣鏡=卑弥呼が魏からもらった鏡」という説が唱えられたのは、今から約100年前のことです。その後、研究が進むにつれ、三角縁神獣鏡の意義や問題点が明らかになってきました。
「三角縁神獣鏡は、邪馬台国の女王卑弥呼が魏の皇帝から下賜された銅鏡百枚である」という説を唱えたのは、東洋史研究者である富岡謙蔵氏*で、根拠とされたのは「銅出徐州、師出洛陽」という銘文がある三角縁神獣鏡の存在でした。*富岡鉄斎の子1874年生まれ
その後、1940年~1950年代にかけて各地で三角縁神獣鏡の出土例が増えました。弥生時代や古墳時代の遺物を研究する小林行雄氏は同笵鏡の出土状況などを分析し、三角縁神獣鏡の出土状況はヤマト王権と地方の王の結びつきを反映していると考えました。
一方でこれに否定的な意見は概ね三角縁神獣鏡を「国産である」「卑弥呼の時代より新しい」「鏡の価値が低い」とし、その根拠としては
中国から一枚も発見されていない。
景初四年(240年)という実在しない年号を記した銘文のあるものがある。
鏡の多くは4世紀の古墳から出土している。
銘文が稚拙で見よう見まねでつくったようである。などです。
しかし、邪馬台国の話、あるいは卑弥呼の鏡かどうかという話を抜きにしても、三角縁神獣鏡が古墳時代前期の社会を解き明かすうえで重要な遺物であることには間違いありません。奈良県黒塚古墳では25種類33面の三角縁神獣鏡が出土しましたが、近畿地方を中心に九州から関東までに及ぶ、広範囲の古墳から出土した三角縁神獣鏡との間に同笵関係があることがわかりました。
同笵鏡の研究や、「景初三年」などの銘を持つ三角縁神獣鏡の存在は「邪馬台国の卑弥呼が魏から下賜された鏡は三角縁神獣鏡であり、ヤマト王権は邪馬台国とつながっている王権(あるいは邪馬台国=大和にあった)」という説を補強することになりました。
こうしたことを背景に「三角縁神獣鏡は“銅鏡百枚”ではなく、日本で作られたものである」という説が1980年代に出されました。
また、三角縁神獣鏡は魏でつくられた鏡であるとする研究者からは「三角縁神獣鏡が中国大陸で出土しないのは、魏が邪馬台国の要請に応じて作った特注品だからである」といった説もあります。また、三角縁神獣鏡の背面に描かれた図案を研究することで、当時の支配者層が中国の神仙思想をどのように受容したか知ることができます。
<黄巾の乱:五斗米道>
五斗米道は、後漢末期に張陵(張道陵)が創始した道教の教団で、後に天師道へと発展しました。この教団は、信者に五斗の米(=500合=当時20リットル)を納めさせることからその名がつきました。五斗米道は道教の一派であり、道教自体が神仙思想を基盤にしています。神仙思想は、不老不死を目指す修行や仙人の存在を信じる思想であり、五斗米道もこれを受け継ぎました。
太平道(たいへいどう)は、後漢末の華北一帯で民衆に信仰された道教の一派です。太平清領書を教典とし、教団組織は張角が創始し、教団そのものは黄巾の乱を起こしたのち、張角らの死を以て消滅します。
黄巾の乱(こうきんのらん)は、後漢末期の184年(中平元年)に中国において、太平道の信者が教祖の張角を指導者として起こした組織的な農民反乱です。目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いたことからこの名がつきました。
五斗米道(ごとべいどう)は、通説では後漢末に太平道に少し遅れて、張陵が、蜀郡の成都近郊の鶴鳴山で老子道徳経を基本にして起こした道教教団です。
2代目の張衡の死後、蜀郡では巴郡の巫である張脩の鬼道教団が活発化した、益州牧の劉焉の命で、3代目の張魯とともに漢中太守蘇固を攻め滅ぼしましたが、後に張魯が張脩を殺害してそれを乗っ取り、漢中で勢力を固めます。張陵の孫:張魯にいたって、組織も整い、数十万の信者を率いる一大宗教王国を作り上げます。が、その後、曹操によって徹底的に壊滅されてしまいます。 曹操(155年~220年)は、三国時代の魏の創始者であり、軍事・政治・文化の各分野で多くの業績を残しています。
五斗米道の指導者たちにとって生き延びる道は、曹操に屈服するか、亡命するかのいずれかの道を選ばなければなりませんでした。張魯は降伏しましたが、亡命を選んだ集団もあったはずです。国外に亡命するとして、鬼道の信者にとって魅力があったのは、東方海上であったとされるのは邪馬台国発見史」の著者である赤城毅彦氏です。p200
卑弥呼の鬼道は神仙思想に基づく様々な方術(神仙方術)であり、卑弥呼はその方術を駆使して人々に福を招き入れる方士であったと考えます。弥生時代から古墳出現期にかけて倭国に神仙思想が広まっていたこと、その神仙思想にもとづく儀礼が行われていたこと
大阪府にある古墳時代前期の前方後円墳である黄金塚古墳からは景初3年(239年)銘のある画文帯神獣鏡が出土しています。中国の後漢時代に作られた画文帯神獣鏡は神仙や霊獣の像を主文様とし、外側に飛仙などの群像を描いた画文帯をめぐらした鏡です。日本では畿内を中心に約60面が出土しています。画文帯神獣鏡と同様に出現期あるいは前期古墳から出土する鏡が三角縁神獣鏡で、その数は500面を上回ります。こちらも神仙や聖獣が刻まれ、特に伝説の神仙とされる崑崙山の西王母や蓬莱山の東王父が描かれたものがあります。
東方海上には不老不死の薬を持つ仙人の島があると信じられていました。
倭国へ行くには、外洋を航行できる船が必要で、一般の庶民にはとてもそういう船を入手することができません。しかし、黄巾の乱をおこした一大宗教王国の指導者たちであれば、外洋を航行できる船を手に入れることができたはずです。この船には、銅鏡を工匠たちも乗り込んだ、後に前方後円墳を築造する土木技術者達も乗船していたのではないでしょうか。
~{参考文献}赤城毅彦「邪馬台国発見史」p201
三角縁神獣鏡は、亡命した五斗米道の指導者たちが作ったというのが今回の論旨です。
京都府福知山市の広峯15号墳から出土した三角縁盤龍鏡には、景初四年五月丙午の銘が入っていました。これは大問題で、大論争を引き起こしました。何が問題かというと景初三年に魏の明皇帝は崩御しています。「景初四年」というの存在しない年だからです。
「謎の四世紀」の著者 上垣内憲一先生は、この景初四年の銘が入った鏡は、大阪府茨木市の東奈良遺跡*で造られたのではないかとされておられます。p107
*東奈良遺跡~邪馬台国は北摂!!
この亡命した五斗米道の指導者たちというのが、第48話:太田市と遺跡 ~呉の勝
で書いた呉の勝だと思います。
「太田と称するわけは、昔、呉の勝(スグリ)が韓の国から渡ってきて、はじめ紀伊の国(和歌山)の名草の郡の太田の村に着いた、その後、分かれて摂津の国の三島の賀美の太田の村に移ってきて、それが揖保の太田の村に移住して来た。これは元居た紀伊の国の太田をとって里の名とした。」
摂津の国の三島の賀美の太田が、大阪府茨木市の東奈良遺跡です。
呉の勝とはウガヤフキアエズ一族、すなわち卑弥呼、スサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)一族です。~第256話:ウガヤフキアエズのミコト
関連項目:幻の景初四年~三角縁盤龍鏡
※これまでの記事はこちらです。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、高槻、枚方、交野です。
※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけとしています。
~古事記、日本書紀の作者(編纂者ではない)たちも魏志倭人伝しか資料がなかったのです。
記紀の登場人物をスサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)=難升米、卑弥呼=天照大神、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
<目次>
