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桜井茶臼山古墳と椿井大塚山古墳

更新日:3月5日

第86話


昨日、私の友人から連絡がありました。 2023/09/08の新聞記事に書いてあったことを知っているか?というのです。記事によると、

「奈良県桜井市の桜井茶臼山古墳(3世紀末)で過去に出土した銅鏡の破片385点を県立橿原考古学研究所(橿考研)が詳しく調べたところ、少なくとも銅鏡103枚の部位であることが判明した。橿考研が7日に発表した。これまで国内最多の81枚と考えられていたが、さらに枚数が多かった。銅鏡はこの時代の政治権力・初期ヤマト王権の権威の象徴とされ、専門家は「王権の権威の巨大さを改めて示す結果だ」と話している。


実は、いつも参考にさせていただいている「謎の四世紀」の中で、上垣内憲一先生は、桜井茶臼山古墳は饒速日の墓とされています。しかし、私は木津川の右岸にある椿井大塚山古墳を五十猛(饒速日)の墓と決めつけていたため、桜井茶臼山古墳は無視していました。


しかし今回、友人からの連絡があったため、もう一度調べて見ました。すると桜井茶臼山古墳から碧玉の玉杖も出土しているのです。玉杖は王権の象徴です。しかも、近くにあるメリス山古墳からも碧玉の玉杖出ているのです。メリス山古墳は、大彦(大国主)の墓です。

碧玉などの玉類は大国主(大彦)の妻の沼河比売(ヌナカワヒメ)との関連を思わせます。碧玉は新潟県の糸魚川の姫川(古代名は奴奈川)でしか産出しません。大彦は饒速日(孝元天皇)の息子です。そして饒速日は鳥見の白庭邑に葬られたと先代旧事本紀に書いてあります。桜井茶臼山古墳は鳥見山の北麓にあります。鳥見(トミ)は長脛彦の本拠地でもありました。


桜井茶臼山古墳は饒速日の墓と思わざるをえません。となると私が饒速日の墓と決めつけた椿井大塚山古墳は誰の墓なのでしょう? 上垣内憲一先生は孝元天皇の墓とされておられます。孝元天皇=饒速日ですから、私の考えも当たらずとも遠からずというかほとんど当たっていたようなものです。


椿井大塚山古墳の特徴は、縄文時代からの漁具である銛、ヤス、釣針が揃って出土している点です。古墳の近くに舟戸という地名があり、以上のことから当古墳の被葬者は船舶の管理者であり、津(港)の管掌者ではなかったかと推測されています。


私は閃きました。これは鴨王の墓だ。鴨王は饒速日(五十猛)の配下で瀬戸内海を管理をしていたと最近書きました。気になるのは、天日方奇日方命は鴨王と事代主の子であるともされています。最近私は、事代主は三島の溝杭ではないと思うようになってきました。事代主は様々な場面で勘違いされています。三島の溝杭=鴨王=ウツシコオとすればどうでしょう。ウツシコオは穂積氏とされていますが、この当時、穂積氏とカモ族はほぼ同じでヤマト(邪馬台国)の水運を司っています。椿井大塚山古墳の近くを流れる木津川を下れば、ウツシコオ(内色許男命)の本拠地の内里(内色許男命の内は内里:京都府八幡市)に出ます。


椿井大塚山古墳の文献を見直してみると、赤城猛彦先生は「邪馬台国発見史」の中(P227)被葬者の候補者として、十分に検証されたうえで

    イ)卑弥呼の弟、ロ)難升米と書かれておられました。ハ)~へ)は省略


ウツシコオは、卑弥呼の弟です。ウツシコオは、難升米です。




※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。 

※これまでの記事はこちらです。



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