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吾田媛の戦い~タケハニヤスの妻

更新日:3月14日

第258話


吾田媛 | 日本史!よろパラ (yoropara.org)では、日本書紀中の僅かに伝えられる吾田媛に関する記述からは、吾田媛は「呪術」を行う優れた能力を有していたことが判る。と書かれています。吾田媛は、呪術や農耕祭祀を執り行う立場の女性であったと推察され、吾田媛自身が出身豪族の中で女性シャーマン(巫女)として高い地位にあった可能性が高く、あるいは出身豪族では「女王」とも呼ばれる立場にあったのかも知れない。とされています。


吾田媛が、叛乱軍の軍勢を指揮し得たのは、戦術面に優れた指揮官と言う理由よりも、兵士たちの間でのカリスマ性が可能ならしめたものであるに違いない。それは江戸時代の『島原の乱』における天草四郎の姿と同じである。徴兵された男性たちも、妻や子、そして一族の誇りを護るため、全幅の信頼を寄せる吾田媛に迷うこと無く付き従った。


私は、第208話で書いています。「田媛は密かに天の香具山の土を取り、その土(埴:ハニ)で天神地祇を祀る土器を造り、密かに呪いごとをしたという。土で祭器を造り、その神威で国土を安らげることが「埴安」です。吾田媛は「是、倭国の物實、」と言ったとあります。吾田媛は密かに天の香具山の土を取り、その土(埴:ハニ)で天神地祇を祀る土器を造り、密かに呪いごとをしたといいます。土で祭器を造り、その神威で国土を安らげることが「埴安」です。吾田媛は「是、倭国の物實、」とある部分が呪術なのでしょう。


吾田媛は河内青玉繋の娘です。武埴安彦命(タケハニヤス)は孝元天皇の皇子です。吾田媛と武埴安彦命と婚姻は政略婚姻であったことは明らかです。しかし吾田媛と武埴安彦命が二人が手を取り合って叛乱を決意した時、二人の愛の絆は、固く揺ぎ無いものとなりました。吾田媛と武埴安彦命が起こした日本史上最初の「王位(皇位)を狙った王権(朝廷)に対する叛乱戦争」は、一組の夫婦の愛の散華でもあった。吾田媛 | 日本史!よろパラ (yoropara.org)


波布理曾能』(『日本古典文學大系1 古事記 祝詞』 倉野憲司 武田祐二 校注 岩波書店)

山代国に在る我が庶兄建波邇安王」(『日本古典文學大系1 古事記 祝詞 倉野憲司 武田祐二 校注 岩波書店)という本があるようです。

山代国の愛宕町はタケミカヅチの本拠地(下賀茂神社・上賀茂神社)です。


波布理曾能は京都府相楽郡精華町の祝園(はふりその)のことです。「はふり」とは「葬り去る」ということです。吾田媛はここで葬り去られたのでしょう。

敗残兵は楠葉の渡しや鵜殿の渡しへ使って逃げたと書れれています。樟葉の渡しは、京都市(愛宕町)を鵜殿の渡しは高槻方面(摂津富田)を目指したのでしょう。それぞれタケハニヤスの拠点です。阿久斗比売(アクト姫)吾田媛としたら高槻の芥川(あくたがわ)に住んでいたと思われます。アクト姫は安寧天皇の后です。安寧天皇はウツシコオです。

そこは大和朝廷(邪馬台国)の中心地です。ですからこの事件はタケハニヤスが起こした反乱ではなく、大和朝廷の転覆をねらったミマキイリヒコ(崇神天皇)の蜂起だったと私は思います。




<タケハニヤスの乱>

タケハニヤスの乱2 ~阿太(奈良県五條市)

タケハニヤスの乱4~大彦は、綏靖天皇


※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

 今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。 

※これまでの記事はこちらです。




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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
3月14日
評等為 5(最高為 5 顆星)。

神名の「クスビ(クスヒ)」は「奇し霊」(神秘的な神霊)もしくは「奇し火」の意と考えられる。「クマノ」は熊野のことであり、出雲の熊野大社島根県松江市)のこととも、紀伊の熊野三山のことともされる。熊野大社の現在の祭神は「熊野大神櫛御気野命」であるが、元々の祭神はクマノクスビであったとする説がある。


日向三代(ひむかさんだい/ひゅうがさんだい)とは、日本神話において、地神五代のうち、瓊瓊杵尊・火折尊・鸕鶿草葺不合尊の3柱の神々およびそれらの神々の時代を指す用語。皇室の祖が日向にあった時代である。概ね天孫降臨神武東征の間に位置する。

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
3月14日
評等為 5(最高為 5 顆星)。

『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、天照大神から十種の神宝を授かり天磐船(あまのいわふね)に乗って河内国大阪府交野市)の河上哮ケ峯(いかるがみね)の地(現在の磐船神社周辺の一帯地と考えられている)に降臨し


『古事記』には系譜以外の事績の記述がないが、『古語拾遺』には、大地主神(おおとこぬしのかみ)の田の苗が御年神の祟りで枯れそうになったので、大地主神が白馬・白猪などを供えて御年神を祀ると苗は再び茂ったという説話がある。

毎年正月に各家にやってくる来訪神である。地方によってはお歳徳(とんど)さん、正月様、恵方神、大年神(大歳神)、年殿、トシドン、年爺さん、若年さんなどとも呼ばれる。

現在でも残る正月の飾り物は、元々年神を迎えるためのものである。門松は年神が来訪するための依代であり、鏡餅は年神への供え物であった[5]。各家で年神棚・恵方棚などと呼ばれる棚を作り、そこに年神への供え物を供えた。

年神の一例。藤沢市遠藤

トシドンは鹿児島県薩摩川内市下甑島に伝わる年神である[6]

また陰陽家では、娑伽羅竜王(しゃがらりゅうおう)の娘、女神・頗梨采女(はりさいじょ)のことを年神といい、元旦に来訪する神霊という。のちに、これに先祖霊が加えられ、習合した[5]

「年」は稲の実りのことで、穀物神である。本居宣長は「登志とは穀のことなり、其は神の御霊以て、田に成して、天皇に寄奉賜ふゆえに云り、田より寄すと云こころにて、穀を登志とはいうなり」と述べ、穀物、農耕神であるとした。

信仰の根底にあるのは、穀物の死と再生である。古代日本で農耕が発達するにつれて、年の始めにその年の豊作が祈念されるようになり、それが年神を祀る行事となって正月の中心行事となっていった。

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
3月13日
評等為 5(最高為 5 顆星)。

天若日子が反乱を起こしたタケハニヤスだとすると、天若日子は建御雷神(タケミカヅチ)です。崇神天皇は軍を派遣しタケハニヤス討ち取った後、喪屋を切り伏せるというのは第143話の出雲の誕生~邪馬台国全史4 御牧入彦が銅鐸を真っ二つに切りつけるシーンを彷彿させます。


安寧天皇はタケミカヅチ

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