第384話
馬子の人物については、古事記、日本書紀の記述によるしかありませんが、いずれも後年藤原氏が権力を握ってから編纂されたもので、のちに藤原氏となる中臣氏が栄達する契機となった乙巳の変で蘇我氏を滅ぼした正当性を高める目的で、記紀に登場する蘇我氏は皇室乗っ取りを目論む横暴な豪族として悪事ばかりが強調されているのではないかという説が一般的です。
推古天皇の時代に於ける冠位十二階制度や十七条憲法の創設、遣隋使派遣といった国内政治および政治外交などの大きな事績を無視するわけにいかず、これらを中心となって主導した馬子の功績を皇族である厩戸皇子(聖徳太子)が行ったものと記し、馬子を太子の政敵に位置づけたとする説があり、この説から、「聖徳太子はいなかった」説、「聖徳太子=蘇我馬子」説も提唱されている。参照:第342話:聖徳太子は菟道稚郎子?!
また、専横著しい蘇我氏を排除したとされる大化の改新についても、近年事実関係が異なるのではないかという説が提唱されています。
奈良県明日香村において、蘇我入鹿邸跡とみられる遺構が発掘されていますが、日本書紀に記されているように入鹿が「上の宮門(みかど)」「谷の宮門」と呼称してあたかも天皇のごとく振る舞った根拠とされる遺跡からは武器庫や武器が発見されており、さながら軍事要塞の体を成していたことが確認されています。
入鹿は唐の侵略を警戒し、外交による解決を図るとともに有事の際に皇室を護る備えをしていたのではないかとする日本書紀の記述とは大きな隔たりがある仮説が立てられています。また、改新の詔の内容については藤原京から出土した木簡により文書が奈良時代に書き換えられたものと決着しています。遺跡発掘による科学調査が進むにつれて、日本書紀の記述に疑いが生じ、蘇我氏専横についても信憑性に疑いが生じています。
馬子は嶋大臣、蝦夷は豊浦大臣、武蔵大臣、入鹿は林大臣、鞍作大郎と人間らしい名前があります。馬子、蝦夷、入鹿という人間ではない名前は、乙巳の変(645年)の後、藤原不比等によって改変されたしまった為でしょう。
伝説によれば、蘇我馬子が相生に来て死んでしまい、その従者の将監光庵はその地名により小河を姓名とし、馬子の為に菩提を弔い、剃髪して庵を結び、光庵禅師を名乗り、子孫代々光庵を名乗ったといいます。兵庫県相生市小河には宇麻志神社(うましじんじゃ)という神社があり、今の祭神は宇摩志阿斯訶備比古遅神であるが、明治維新以前は「馬子宮」と呼ばれ蘇我馬子を祀っていたとされています。参照:蘇我馬子はウマシマジ??
しかし、この伝承も捏造でしょう。
・揖保乃糸の揖保郡(いぼぐん)は、兵庫県(播磨国)で、和銅7年(713)に編纂された播磨国風土記に「枚方」の地名が出てきます。「枚方の里 土は中の上なり。枚方と名づる所以は、河内の国、茨田(マンダ)の郡の枚方の里の漢人、来たりて、初めてこの村に居りき。」枚方は邪馬台国です。参照:第309話:邪馬台国は北摂!!
・「太田と称するわけは、昔、呉の勝(スグリ)が韓の国から渡ってきて、はじめ紀伊の国(和歌山)の名草の郡の太田の村に着いた、その後、分かれて摂津の国の三島の賀美の太田の村に移ってきて、それが揖保の太田の村に移住して来た。これは元居た紀伊の国の太田をとって里の名とした。」三島は邪馬台国です。三島の賀美は高槻市です。
参照:第272話:高槻と邪馬台国
・この2つのことは、記紀には書いていません。
宇麻志神社の祭神である宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじのかみ)は出雲大社の本殿御客座でも祭られています。
出雲大社が建てられたのは、600年の遣隋使で恥をかいた日本は、遣隋使(けんずいし)の失敗を誰かのせいにしたかった。そこでかつて中国大陸(魏)に行ったことのあるウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)=大国主のせいにしたかったのではないでしょうか。と書きましたが、藤原不比等は馬子がウツシコオの末裔*であることを知っており、馬子もひっそりと出雲大社に祭ったのでしょう。*蘇我氏は武内宿祢の子孫とされています。武内宿祢はウツシコオです。参照:第324話:武内宿禰はウツシコオ!!
馬子以前の大王(天皇)はすべて架空の人物です。参照:彦はすべてウツシコオ!!
{参考文献}蘇我馬子 - Wikipedia
関連項目:聖徳太子は菟道稚郎子?!
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
※これまでの記事はこちらです。
<目次>
<邪馬台国の新常識>
ウガヤフキアエズのミコト
邪馬台国の誕生
徐福伝説と「呉の勝」
日向は大阪府守口市
櫛名田比売2~八雲は守口市
ウツシコオの名前についての弁明
多氏と長脛彦
饒速日と長脛彦
<河川は古代の高速道路>
市寸島比売は厳島!~広島・三島 )
真舌媛は、宗像三女神!~三島(茨木市)
全ての道は三島に通じる。
<欠史八代の天皇の正体>
素戔嗚(スサノオ)は、孝霊天皇
丹・朱を求めた天皇たち
<大彦>
大国主は、大彦
大彦
大彦は、高倉下~新潟県西蒲原郡弥彦村
大彦の北陸道遠征
大彦~メスリ山古墳: 桜井市
大彦は、綏靖天皇~タケハニヤスの乱4
大国主は、大彦 ~出雲は三島
<卑弥呼>
卑弥呼は名草トベ~和歌山市
卑弥呼は萬幡豊秋津師比売
<ウツシコオ(内色許男命)=大綜麻杵(オオヘソキ)>
ウツシコオは難升米ではなかった?
ウツシコオは魏志倭人伝に登場する難升米
八咫烏の真実~ウツシコオ陰謀の始まり
<饒速日>
饒速日は大阪府茨木市出身
星の降る町~速玉は饒速日
伊都国 一大率は五十猛(饒速日)
孝元天皇は五十猛!~椿井大塚山古墳
五十猛の九州征圧
神功皇后と五十猛
饒速日が死んだ!~ウツシコオの陰謀
孝元天皇と家族たち