隋使派の嘘(2)裴世清と張政
- tootake
- 1月5日
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更新日:1月6日
第918話
前回:遣隋使の嘘:アメノタラシヒコでは、隋書のいう倭王:多利思比孤とは、ウツシコオのこととしました。そして、隋使の裴世清は、魏志倭人伝をかいたとされる張政です。
この説をもう少し詳しく検証してみます。
隋使の裴世清の日本(倭国)での記録は、日本書紀と隋書にもあり、かなり詳細に記録されてます。隋使派遣の月日を隋書は記していませんが、日本書紀では推古16年(608 年)で4月に筑紫に着いたとあります。隋使は6月15日に難波津に到着し、 倭国側はこれを河口(江口)で飾船30艘の出迎えし隋使のために造営した新館に案内します。
隋使来訪の情報を聞 いた倭王は、これを迎える新館を造り始めさせ、隋使は筑紫着から1ヶ月以上かけて「又東 至秦王國(中略)又經十餘國 達於海岸」と、難波津に着岸し飾り船で出迎えを受け完成した新館に案内され、ここで倭王と対面したとは記述はありません。
実は、隋書は倭国の都の位置を明確に示していません。「海岸に着いて、既に彼の都に至った」あり、道程がここで 終っているためです。隋使(裴世清)が来日した 608 年当時、浪速宮(難波宮)はまだ存在していなかったとされています。
その後、難波到着1ヶ月半後の8月3日に隋使は、海石榴市の巷において飾騎75匹で出迎えられます。海石榴市は、現在の奈良県桜井市金屋付近に比定される古代の大市で、大和川(初瀬川)水運の終点として知られています。
海石榴市は、第666話:元伊勢(13)~長谷寺・與喜天満宮で書いた長谷寺(奈良県桜井市初瀬)のあるところです。日本で初めての僧が11歳の善信尼(=台与)が三衣(袈裟)を奪われ亭(駅舎)で鞭打れた場所でもあります。~第539話:仏教伝来異聞
なぜ1ヶ月半もかかったのか考えられる理由としては、
・難波宮での滞在・儀礼準備 → 外交儀礼の調整に時間がかかった可能性
・大和川の水位・航行条件 → 古代の大和川は氾濫・浅瀬が多く、遡行には季節的制約があった。
・海石榴市での大規模な迎えの準備 → 飾騎75匹という大規模な儀礼の準備期間
などが考えられます。
本当に隋使が海石榴市に行ったかのかどうかについては、疑問も持たれています。なぜなら、当時の都は推古天皇の宮は小墾田宮(飛鳥?)で海石榴市からは遠く離れており、海石榴市は都ではないからです。
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一方、魏志倭人伝を書いたとされる張政(ちょう せい)も実は、九州辺りに居ただけで、邪馬台国の本拠地には、行っていないというと前回:遣隋使の嘘:アメノタラシヒコで書きました。
「張政は九州にいただけで、邪馬台国の本拠地(=女王の居所)には行っていない」という説は、学界の主流ではありませんが、可能性は否定されていません。
張政は帯方郡の武官で卑弥呼と狗奴国の戦争の仲介に派遣
卑弥呼の死と壹与の即位を見届けた。その後、壹与の使者に送られて帰国
しかし、張政が「邪馬台国の都(女王の居所)」に到達したとは書かれていません。
張政の任務は「仲介」であり、必ずしも都に行く必要はない のです。
張政の任務は、 卑弥呼と狗奴国の戦争の仲裁で、黄幢(軍旗)を渡し、檄文で和解を促すことで、これらは必ずしも女王の居所に行かなくても遂行可能です。
伊都国は“外交の窓口”であり、帯方郡との連絡拠点で倭国の使者はすべて伊都国で検察される(魏志倭人伝)つまり、張政が伊都国周辺(=北部九州)に滞在し、倭国側の使者(難升米・掖邪狗など)を通じて仲介した可能性は十分にあります。
張政は「18年間も倭国に滞在した」という説があります、場所は不明ですが、張政が247年~265年まで倭国にいた可能性を述べています。場所は、北部九州のどこかであった可能性が高いとされています。
「張政は九州にいただけで、邪馬台国の本拠地には行っていない」 という説は、史料批判的には十分に成立しうる合理的仮説と言えます。←AIによる判定
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隋使は9月11日帰国の途につきます。この1ヶ月 間で倭国国情を具に見聞し、阿蘇山の噴火に遭遇したという記録があります。
史料的に確認できるのは「倭国側(日本側)の航路」であり、隋使が来日した際も基本的に同じルートを逆にたどったと考えられます。
つまり、隋使の来日ルートは、
① 隋(揚州・江都)を出発
↓
② 東シナ海を横断
↓
③ 九州・博多津(那大津)に到着
↓
④ 瀬戸内海を東進(航路は潮流が安定し、古代から主要航路)
↓
⑤ 難波津に到着
隋使は難波津に到着後、難波の客館(むろつみ)で滞在、その後、大和川を遡って海石榴市へ向かった。という流れになります。
難波津は古代日本の外交拠点で、隋・唐・新羅の使者が到着したと記録されていますが、隋使いの裴世清は本当に日本の首都まで来たのかは断言できません。なぜなら、当時の大阪(難波)には、孝徳天皇はの浪速宮はなくても仁徳天皇の難波高津宮が浪速津の近くにあったはずだと思うからです。魏志倭人伝の張政も、九州にはいたようですが、邪馬台国の都に来た様子はありません。
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<追記>
古代の奈良県のは、大きな湖がありました。
古奈良湖 → 大和川水系 → 初瀬川舟運 → 海石榴市の成立という連続した地形史・交通史の流れを描くことで、海石榴市の水運的性格をより深く説明できます。
時間的には古奈良湖と海石榴市は直接つながりませんが、地形史的背景としてはむしろ不可欠な要素です。第26話:奈良に湖 もう一つの古代高速道路か
更に続く→東夷伝と用明天皇
これまでの記事はこちらです。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、吹田、高槻、枚方、交野です。
※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけとしています。
~古事記、日本書紀の作者(編纂者ではない)たちも魏志倭人伝しか資料がなかったのです。
記紀の登場人物をスサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)=難升米、卑弥呼=天照大神、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。
※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。
神武天皇と八咫烏、フツヌシとタケミカズチ、神功皇后 武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、
アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)
聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)
※台与(豊)は魏志倭人伝に書かれいる13歳で邪馬台国の大王(天皇)に即位した人物のことです。
※ウツシコオは魏志倭人伝に書かれている難升米のことです。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
<目次>




国際的視点からの古代史考 - 阿毎多利思比孤=聖徳太子
新唐書 - 百科事典
高瀬の渡し
高瀬神社 (守口市) - Wikipedia
<これまでウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)であることが判明した人物>
第374話:牛鹿臣はウツシコオ! 第371話:彦狭島命~吉備児島
第372話:建日方別:彦狭嶋命 第369話:神武西征~健磐龍命
第365話:君が代(2):君はウツシコオ 第363話:彦はすべて、ウツシコオ
第324話:武内宿禰はウツシコオ!! 第325話:天之日矛はウツシコオ
第326話:大日彦(オホヒヒ彦)~守口 第327話:于道朱君の衝撃~新羅
第328話:沙至比跪(サチヒコ) 第329話:アメノヒボコはウツシコオ
第330話:投馬国とウツシコオ~丹波(但馬) 第331話:朱智神社~迦邇米雷王
第333話: 牛頭天王(スサノオ)はアメノヒボコ?
第380話:猿田彦は異国人 第401話:犬養氏:スサノオは天手力男神=野見宿禰
第335話: 天道根命は道祖神=ウツシコオ 第334話: 大彦は、五十猛!
第336話:大屋彦~根の国は和歌山 第337話:阿多賀田須命~宗像氏
第338話:月読命(ツクヨミ) 第349話:天児屋命はウツシコオ!!
第357話:武甕槌神(タケミカヅチ)考 第317話:ひょっとこ:火男~天之御影命
第318話:空海のルーツは内色許男命! 第319話:和知津美命はワタツミ!!
第320話:欠史八代はヤマト=三島 第230話:三嶋溝抗命たち(複数)
第231話:神八井耳命は三毛入野 第232話:内色許男命は武埴安彦命!
第274話:八咫烏もウツシコオ 第275話:事代主もウツシコオ?
第279話:開化天皇 第280話:建角身命もウツシコオ
第263話:中臣氏~中臣烏賊津 第256話:ウガヤフキアエズのミコト
第244話:大津神社と建南方富命 第245話:豊御気主命は三毛入野!
第246話:高御産巣日神(高木神) 第247話:今迦毛大御神と天若日子
第249話:物言えぬ皇子~阿遅須枳高日子 第251話:猿田彦は塩土老翁神
第252話:迦毛大御神は崇神天皇! 第253話:キサガイヒメはウツシコオの母!
第354話:伊勢津彦はタケミナカタ =ウツシコオ 第254話:興玉命も内色許男命
第361話:宇都志国玉神と宇都志日金拆命 第394話:天御鳥命(武夷鳥命)は火の鳥
第395話:天日鷲命は、、、 第397話:獲加多支鹵大王(ワカタケル) =雄略天皇
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