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邪馬台国全史Ⅴ~コロナ発生

更新日:4月15日

第159話~BC247年 


「祟りじゃ、祟りじゃ、長脛彦殿の祟りじゃ」倭迹々日百襲姫(やまととももそ姫:以下は倭姫)は大きな声で言った。


イニエ(ミ・マキ入彦・イニエ)は、倭姫の姫屋敷を訪れていた。

新たに宰相となったイカガシコオも連れてきている。イニエ14歳 倭姫70歳 

倭姫は第7代孝霊天皇の娘で、イニエは、第9代開化天皇の息子とされています。

倭姫は、幼いころより頭脳明晰で日照に苦しむ人々のために水源を教え、水路を開き米作りを助けたるなどの実績があります。


イニエは、大王(おおきみ)に即位すると、宮を枚方市中宮山戸町から交野市の郡津(こうず)に移した。倭姫も郡津に屋敷を与えられていた。記紀では、仁徳天皇の宮は、即位元年、難波高津宮(こうず)に都を移す。と書かれています。このプログ(小説)では、仁徳天皇=菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)=イニエです。記紀は同じ人物をモデルにして数人の人物として書き分けています。元の資料(Q資料)が一つしかないからです。

郡津(こうず)は、元々、大彦(高倉下)が住んでいた倉治〒 576-0051と同じ地区です。この地域には饒速日(孝元天皇)が天下ったとされる岩船神社があり、岩船街道は、今でも枚方から奈良県に抜ける交通の要所でもあります。高津姫 ~岩船街道


BC247年、長脛彦を討伐した翌月に卑弥呼(渚姫)が死に、弟のウツシコオも後を追うように亡くなっています。内色許男命(ウツシコオ)最後の陰謀 ~長脛彦の最後


「伯母上えらいこっちゃ。どうしたらええのや。」イニエは尋ねた。

「あれは流行り病や。魏から来た渚姫様の織姫が流行らせたんや。渚姫様がなくなったあと次々とお付きのものも死によった。ウズメイシコリドメも、五伴緒(いつとものおの)みんな死んだ。けど魏から来た織姫だけが死なんかった。熱もでえへんかった。魏で昔、そんな病が流行ったというてた。よそ(他国)から来たもんが流行らせたそうや。よそから来たもんはなんともないのに、よそもんに近づいたもんだけがかかるんや。」

倭姫は続けた。

「まずは身を清めることや。体についてるた祟りを払うのや。祟りとは病の元になる目には見えへん物のことや。手をきれいに洗うことも大事や。ほんで病にかかった者たちを一所に集めて、歩き回らんようにするのや」


卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人

「卑弥呼、以って死す。冢を大きく作る。径は百余歩なり。徇葬者は奴婢、百余人なり。」


イニエは、卑弥呼の側近で死んだ者たちを一所に集めて埋めた。これが後に殉死者と伝えられた。しかし疫病による民の感染者は日に日に増え、半数以上の民が死亡した。感染しなかった者たちも、大和(邪馬台国)から離れて行った。イニエ(崇神天皇)はついに大和(御牧国(ミマキ国)そのものを桜井市に移転させ、そして民衆の不安を治めるために、大神神社を建てた。


日本書紀 崇神天皇5年、「国内(くにうち)に、疾疫(えのやまひ)多(おほ)くして、民(おほみたから)死亡(まか)れる者(もの)有(あ)りて、且大半(なかばす)ぎなむとす。 (国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上に及ぶほどであった)」


日本書紀では、崇神天皇が八百万の神々を神浅茅原(かんあさじはら:比定地未詳)に集めて占うと、大物主神が百襲姫に神憑り、大物主神を敬い祀るように告げたという。イカガシコオがすべてを取り仕切った。


日本各地の神社では、お祓い、手洗い、禊を奨励し民衆に身を清めることの大切さを教えることとなりました。



※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。。 

※これまでの記事はこちらです。



大神神社(おおみわじんじゃ)奈良県桜井市三輪


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