保津川と葛野大堰
- tootake
- 10月5日
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第826話
このブログでしばしば登場する保津川は桂川の一部を指す名称です。保津川の名称は、古代から多様に変遷しており、地名・歴史・文化の層が複雑に絡み合っています。に呼び名が変わります。
古代の名称 | 用例・背景 |
葛野川(かどのがわ) | 『日本書紀』などに見られる。葛野郡(現在の京都市西部)に由来。 |
大堰川(おおいがわ) | 渡来系氏族・秦氏が堰を築いたことに由来。嵐山周辺で使用。 |
大井川・西河・葛河 | 地域や文献によって異なる表記。特に嵐山周辺で「大井川」が使われることも。 |
桂川は、丹波山地の大悲山付近に源を発する川ですが、嵐山の付近では「大堰川(おおいがわ)」と呼ばれています。水源から亀岡盆地あたりまでは「桂川」、亀岡と京都の間の峡谷は「保津川」、渡月橋付近で「大堰川」、そして渡月橋より下流は再び「桂川」と呼ばれています。古くは葛野川と呼ばれていました。
桂川にかかる渡月橋のから川の上流を見やると、木の杭を並べた堰がみえます。葛野大堰(かどのおおい)と呼ばれている堰(せき)です。大堰川と呼ばれるのは、5世紀後半に、秦氏が葛野地方に移り住み、この付近で桂川の流れをせき止める大きな堰を築いたためであす。葛野大堰の歴史は古く、秦氏が築いたとされています。
現在の桂川は、古くは葛野(かどの)川と呼ばれていました。丹波山地を源流とするこの桂川は亀岡盆地から保津峡を抜け、観光名所である嵐山に流れ出ます。古代からそして現在でも梅雨や台風のシーズンに洪水を繰り返し、暴れ川でした。そのために、造られたのが葛野大堰で作ったのは秦氏です。
秦氏が築いた葛野大堰の原型はすでに失われていますが、今も渡月橋上流の川底には当時の段差があるそうです。松尾大社に近い松室遺跡では、約60m幅の川のような大溝が発掘されています。葛野大堰に関連した放水路よのうな施設だったと推測されています。桂川の右岸はこうした水路を引いて田畑の開拓が大々的に行われていました。
秦氏が葛野大堰を築いたのは、5世紀後半とされています。その根拠は、それまで古墳が全く築造されなかった嵯峨野丘陵に、その時期に首長墓が作られるようになるからです。現存する最古の首長墓は清水山古墳です。清水山古墳は、5世紀末から6世紀初頭にかけて築造されたと考えられています。この古墳は京都市右京区太秦松本町に所在し、全長約60メートルの前方後円墳で、横穴式石室を備えていました。
この辺りには太秦という地名があります。東映の映画村があるので有名です。大阪府の寝屋川市にも太秦があります。寝屋川市の太秦は第412話:ヤマタノオロチは淀川~茨田堤2で書いたように、仁徳天皇=台代が茨田堤を築くために滞在していた地と思われます。
ちなみに、太秦の太はフツ、ウツ内 ウツシコオの内です。
信太の「太」は伊太祁曽神社のシンボルマークとして使用されています。
伊太祁曽神社の神紋は「太」です。 「太」一文字で「太一」この意味は、日本の最高の神という意味です。現在の伊勢神宮でも見られるそうです。~戸矢学著、ニギハヤヒと「先代旧本紀」P184 ~第53話:五十猛彦は饒速日!
この「太」とはウツシコオ=経津主神(ふつぬし)の事だと思われます。
新撰姓氏録には「大和国 内臣 孝元天皇皇子彦太忍信命之後也」という氏族としての内臣の記載があります。内臣は京都府八幡市内里内で「山代内臣」として祀られています。すなわちウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)です。この神社にはともに祀られている甘美内宿禰(うましうちのすくね)は、ウマシマジ=台与(豊)です。~第456話:ウマシマジは台与!
この内神社は春日宗像神社とも呼ばれています。春日=中臣で宗像は南方に同じです。彦狭知(ヒコサチ)=ウツシコオは、中臣氏の祖であり、宗像氏の祖であることが分かります。みなかたは南方でタケミナカタのことです。~第337話:阿多賀田須命~宗像氏
なお太秦周辺には、法輪寺や広隆寺があります。このブログでは、いずれも台与に関係の深い地としています。~第629話:観音菩薩と台与(2)~法輪寺 第540話: 広隆寺と聖徳太子立像
ということは、5世紀後半の葛野大堰が築かれる以前に台代もこの地にいたことになります。葛野には、賀茂県主(かものあがたぬし)やその一族が盤踞していたともされてます。
賀茂県主の祖は賀茂建角身命でスサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)です。葛野大堰は、邪馬台国の時代には、すでに存在していたと思われます。第806話:五社水路と三島溝咋耳では、三島溝咋耳(みしまみぞくいみみ)との関係が示唆されていました。807話:邪馬台国と栗隈大溝(くりくまのおおうなで)で書いた栗隈大溝でも三島溝咋耳=事代主=大山咋神=スサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)の関与が考えられることから、葛野大堰を最初につくったのは、台与とウツシコオ=難升米だと思います。
{参考文献}淀川水系流域委員会傍聴者発言要旨bessi_783.pdf 葛野大堰
これまでの記事はこちらです。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、吹田、高槻、枚方、交野です。
※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけとしています。
~古事記、日本書紀の作者(編纂者ではない)たちも魏志倭人伝しか資料がなかったのです。
記紀の登場人物をスサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)=難升米、卑弥呼=天照大神、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。
※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。
神武天皇と八咫烏、フツヌシとタケミカズチ、神功皇后 武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、
アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)
聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)
※台与(豊)は魏志倭人伝に書かれいる13歳で邪馬台国の大王(天皇)に即位した人物のことです。
※ウツシコオは魏志倭人伝に書かれている難升米のことです。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
<目次>




<これまでウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)であることが判明した人物>
第374話:牛鹿臣はウツシコオ! 第371話:彦狭島命~吉備児島
第372話:建日方別:彦狭嶋命 第369話:神武西征~健磐龍命
第365話:君が代(2):君はウツシコオ 第363話:彦はすべて、ウツシコオ
第324話:武内宿禰はウツシコオ!! 第325話:天之日矛はウツシコオ
第326話:大日彦(オホヒヒ彦)~守口 第327話:于道朱君の衝撃~新羅
第328話:沙至比跪(サチヒコ) 第329話:アメノヒボコはウツシコオ
第330話:投馬国とウツシコオ~丹波(但馬) 第331話:朱智神社~迦邇米雷王
第333話: 牛頭天王(スサノオ)はアメノヒボコ?
第380話:猿田彦は異国人 第401話:犬養氏:スサノオは天手力男神=野見宿禰
第335話: 天道根命は道祖神=ウツシコオ 第334話: 大彦は、五十猛!
第336話:大屋彦~根の国は和歌山 第337話:阿多賀田須命~宗像氏
第338話:月読命(ツクヨミ) 第349話:天児屋命はウツシコオ!!
第357話:武甕槌神(タケミカヅチ)考 第317話:ひょっとこ:火男~天之御影命
第318話:空海のルーツは内色許男命! 第319話:和知津美命はワタツミ!!
第320話:欠史八代はヤマト=三島 第230話:三嶋溝抗命たち(複数)
第231話:神八井耳命は三毛入野 第232話:内色許男命は武埴安彦命!
第274話:八咫烏もウツシコオ 第275話:事代主もウツシコオ?
第279話:開化天皇 第280話:建角身命もウツシコオ
第263話:中臣氏~中臣烏賊津 第256話:ウガヤフキアエズのミコト
第244話:大津神社と建南方富命 第245話:豊御気主命は三毛入野!
第246話:高御産巣日神(高木神) 第247話:今迦毛大御神と天若日子
第249話:物言えぬ皇子~阿遅須枳高日子 第251話:猿田彦は塩土老翁神
第252話:迦毛大御神は崇神天皇! 第253話:キサガイヒメはウツシコオの母!
第354話:伊勢津彦はタケミナカタ =ウツシコオ 第254話:興玉命も内色許男命
第361話:宇都志国玉神と宇都志日金拆命 第394話:天御鳥命(武夷鳥命)は火の鳥
第395話:天日鷲命は、、、 第397話:獲加多支鹵大王(ワカタケル) =雄略天皇
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