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邪馬台国と栗隈大溝(くりくまのおおうなで)

  • tootake
  • 9月16日
  • 読了時間: 7分

更新日:9月21日

第807話


新名神高速道路整備に伴う発掘で、古墳時代前期の自然流路と後期〜奈良時代まで使用された人工溝が発見されました。これが京都府城陽市富野久保田にある小樋尻遺跡で、 この人工溝が「栗隈の大溝(くりくまのおおうなで)」に比定される可能性が高いとされています。


仁徳天皇*十二年十月条に「大溝を山背の栗隈県に掘りて田に潤く。是を以て、その百姓、毎に年豊」→ 灌漑によって農業生産が向上し、民が豊かになったと記されています。

推古天皇十五年(607年)是歳条にも 「山背国に大溝を栗隈に掘る」にも同じ地るとに大溝が掘られたことが記録されています。*仁徳天皇は台与です。~第582話:仁徳天皇(第16代)と大仙陵古墳


栗隈郷(県)の位置は、和名抄によると、山城国久世郡栗隈郷は現在の京都府宇治市大久保町付近とされています。この辺りは、色許男命(ウツシコオ)、欝色謎命(ウツシコメ)の名前の由来となった内(うち)内里(京都府男山市)のすぐ近くです。まさに私が邪馬台国とする地です。~邪馬台国は巨椋池


栗隈の大溝は、古墳時代前期の自然流路 幅約25m、深さ約2.7m。木材で水流を調整する施設や導水施設があり、祭祀に用いられた可能性もあります。幅約11m、深さ約1.8m。草本類を敷いて造成土を強化する「敷葉工法」や木製の堰による水位調整など、高度な土木技術が確認されています。


小樋尻遺跡からは、鍬・鋤などの農具、漆塗りの盾、琴、勾玉、斎串、人形などが出土しており、 水辺の祭祀や律令祭祀の痕跡とされ、地域の政治的・宗教的中心性を示唆します。


栗隈大溝(くりくまのうなて)は、単なる水路ではなく、政治・祭祀・技術・地理が交差しており、邪馬台国がここにあったということを示しているように思えます。


栗隈大溝では、高度な土木技術が見られます。

・敷葉工法(しきばこうほう)は、 溝底の両側に草本類を敷いて造成土を強化する技術で、これは水圧や浸食への耐性を高める高度な工法です。

・木製の堰(せき)は、 水位調整のため、溝に直交する形で木材を設置。季節や用途に応じて水量を調節していたと推定されます。

・農具類(鍬・鋤) 木製で軽量化された「なすび型鍬」など、当時の農業技術の進化を示しています。


祭祀具(漆塗りの盾・琴・勾玉・斎串・人形) 水辺の祭祀において「盾=邪悪の防御」「琴=神との交感」など、技術と信仰が融合した痕跡です。

流路の変更と制御 大谷川(京都府八幡市橋本東山本)の流路を北北西へ変更した痕跡があり、これは人為的な掘削による水利制御と考えられています。


前回:五社水路と三島溝咋耳では、三島(茨木市、高槻市)にある五社水路について書きました。高槻市のすぐ上が京都府久世郡、宇治市も自転車でも行ける距離です。当然、栗隈大溝と五社水路についての比較研究があると思ったのですが、そんな研究は誰もしてないようです。

  • 位置

    • 栗隈大溝:京都府城陽市富野久保田・小椋島遺跡付近で発掘された河道

    • 五社水路:大阪府摂津市坂原地区の安威川から取水し、壺井池へ導く灌漑用水路

  • 築造時期

    • 栗隈大溝:

      • 自然流水路は縄文–弥生時代に形成

      • 古墳時代後期に人工溝を掘削し、奈良時代末まで継続使用

    • 五社水路:

      • 古墳時代前期頃に原型開削

      • 以後も江戸期以降の改修を経ながら「五社の水」として現代に継承

    • 栗隈大溝:水田灌漑が主要機能。儀礼や祭祀の導水設備も確認

    • 五社水路:主に水田灌漑用。地域の祭りや共同利用の場としても歴史的に機能

    • 栗隈大溝:古墳–奈良時代を通じて何度も再掘削・維持管理が行われた

    • 五社水路:江戸期以降も村落単位で「五社の水」と呼び親しみながら維持・管理

    • 栗隈大溝:大規模自然河道と人工溝の重層利用が示す古代の高度水利技術例


    栗隈大溝は大規模で専門技術を投入した都市近郊水利施設で、五社水路は分岐・枝線を持つ小規模集落内水路という性格を色濃く示しています。


五社水路では、三島溝咋耳(みしまみぞくいみみ)との関係が示唆されていました。栗隈大溝と五社水路は、地理的に近く、時代も近いと思われるため、栗隈大溝でも三島溝咋耳=事代主=大山咋神=スサノオ(津田の王ウツシコオ(内色許男命)

の関与が十分に考えられます。


ここで「溝」を「うなて」と読ませていることが気になります。

「うなて」は地名です。奈良県橿原市雲梯(うなて)町には高市御縣坐鴨事代主神社:河俣神社があります。


大溝が木津川・宇治川水系と接続し、農業用水だけでなく舟運路としても機能しています。

舟運路としても利用された可能性があり、物資や情報の流通を促進。水路沿いに神社や集落が配置され、経済・宗教・政治のネットワークを支えていました。

栗隈の大溝(くりくまのおおうなで)を「単なる農業インフラ」ではなく、政治・祭祀・文化を統合する装置として捉えることもできます。


大溝は木津川や古川からの取水を制御し、低湿地帯を灌漑可能にしました。水利権は慣行的に継承され、水を握ることが地域支配の根拠となったと考えられます。


「栗隈大溝—淀川—三島神社—五社水路といったこの淀川、宇治川、木津川のネットワークが見えてきます。


出雲国造神賀詞に皇室を守護する神として「事代主命の御魂を宇奈提の神奈備に坐せ」とあり、この「宇奈提(うなせ)」は「雲梯(うなて)」のことであるとして、延喜式神名帳に記載される式内大社「大和国高市郡 高市御縣坐鴨事代主神社」に比定されています。


先ほども書いたように、事代主=三島溝咋耳スサノオ(津田の王ウツシコオ(内色許男命)です。


*仁徳天皇は台与です。仁徳天皇=台与は、大阪で大規模な土木工事(堀江の掘削と茨田堤)を行っています。第203話:堀江~仁徳天皇は崇神天皇!では、次のように書かきました。「仁徳天皇の御世に、秦人を役(えだ)ちて茨田堤また茨田三宅を作り、また丸邇池(わこのいけ)依網(よさみ)を作り、また難波の堀江を掘りて海に通はし、、」


高度な土木工事技術で、栗隈大溝を築いたのも、スサノオ(津田の王ウツシコオ(内色許男命)と台与(秦氏)でしょう。


関連項目:第412話ヤマタノオロチは淀川~茨田堤2

    :第344話:聖徳太子伝説~堀江と茨田堤

    :淀津遺構



これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、吹田、高槻、枚方、交野です。

※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけとしています。

 ~古事記、日本書紀の作者(編纂者ではない)たちも魏志倭人伝しか資料がなかったのです。

記紀の登場人物をスサノオ(津田の王ウツシコオ(内色許男命)=難升米、卑弥呼=天照大神、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。

※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。

神武天皇と八咫烏、フツヌシとタケミカズチ、神功皇后 武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、

アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)

聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)

※台与(豊)は魏志倭人伝に書かれいる13歳で邪馬台国の大王(天皇)に即位した人物のことです。

※ウツシコオは魏志倭人伝に書かれている難升米のことです。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>




巨椋池と栗隈大溝の位置関係

ree

 
 
 

4件のコメント

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ゲスト
9月17日
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ゲスト
9月16日
5つ星のうち5と評価されています。

伊豆国を造った出雲族|事代主の子孫が集った伊豆 | 馬の駆ける速度で地球旅|神話を歴史へ

なぜ三島大明神なのかというと?


伊勢津彦や沼奈川別ら大彦軍はヤマト王国の磯城王家出身で、彼ら賀茂族の祖先は摂津国三島(高槻市)の三島家です。賀茂族は三島家の活玉依姫が出雲王国8代目副王の事代主に嫁いで生まれた子孫なので、賀茂族は三島家の活玉依姫や出雲王家の事代主が祖神となっています。


故に白浜神社の推定通り三島大明神は事代主で間違いありません。

伊豆国の成立には、出雲族の移動と定着、そしてヤマト王権との連携が複雑に絡んでいた可能性が高いです。

• 富家伝承によると、初期ヤマト王権は丹波から南下した海部氏と出雲系の登美家による合体王朝であり、伊豆もそのネットワークの一部だったとされます。

編集済み
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tootake
9月15日
5つ星のうち5と評価されています。

<台与シリーズ>

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