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経津主神は剣!

第152話


経津主神は武甕槌神(タケミカヅチ)と関係が深いとされ、両神は対で扱われることが多くみうけられます。有名な例としては、経津主神を祀る香取神宮と、武甕槌神を祀る鹿島神宮とが、利根川を挟んで相対するように配置されています。春日大社では経津主神が建御雷神らとともに祀られています。これは香取神宮・鹿島神宮のある常総地方が中臣氏(藤原氏)の本拠地だったため、両社の祭神を勧請したものです。鹽竈神社でも経津主神・建御雷神が塩土老翁とともに祀られています。

出雲国造神賀詞では、高御魂命(タカミムスビ=ウツシコオ)が皇御孫命(=ミ・マキ入彦)に地上の支配権を与えた時、アメノホヒが国土を観察し、再び天に戻って地上の様子を報告して、自分の子に布都怒志命(経津主神)を副えて派遣したとされています。

一方、古事記では経津主神が登場せず、思金神(オモイカネ=ウツシコオ)が天尾羽張神(アメノオハバリ)もしくはその子の建御雷神(タケミカヅチ)を送るべきだと天照大神(卑弥呼)に進言します。天尾羽張神が建御雷神のほうが適任だと答えたため、建御雷神が天鳥船神(アメノトリフネ)を副えて葦原中国へ天降ったとあります。

第113話では、「葦原中国の平定の経験あるタケミカヅチにいまいちど降臨して手助けせよ」と命じるいきおいだったが、建御雷は「かつて使用した自分の剣をさずければ事は成る」と言い、神武のところへ運んで貢がせたのだという。その剣は布都御魂(ふつのみたま)のほか、佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ)の別名でも呼ばれている(石上神宮のご神体)」と書きました。


建御雷は「かつて使用した自分の剣をさずければ事は成る」と言い、(高倉下の)倉に穴をあけてねじ込み、神武のところへ運んで貢がせたのだという。その剣は布都御魂(ふつのみたま)のほか、佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ)の別名でも呼ばれています(石上神宮のご神体)。


「フルイ起す」フツであるとする説や。神武東征武甕槌神神武天皇に与えた布都御魂(ふつのみたま)の剣を神格化したとする説、物部氏の祭神であるとする説などがあります。先代旧事本紀では経津主神の神魂の刀が布都御魂であるとしています。古事記では、建御雷之男神の別名が建布都神(たけふつのかみ)または豊布都神(とよふつのかみ)であるとし、建御雷之男神が中心となって葦原中国平定を行うなど、建御雷之男神と経津主神が同じ神であるかのように記載しています。


以上のようなことから私は経津主神は人の名前ではなく第110話(星の降る町~速玉は饒速日 )で述べた隕鉄剣すなわち石上神社にまつられている布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)なのです。


第143話では、こんなシーンがありました。

「ほんなら、、、」ウマシマジの頭は一瞬真っ白になった。建甕槌が軍を引き継いだということは、建甕槌が長脛彦になったということではないのか。しかも建甕槌は彦幸(ウツシコオ)に忠誠を誓っているようだ。


彦幸(ウツシコオ)は、塩土老翁です。経津主神はこの時点では、建甕槌の手にあったと思われます。経津主神は武力の象徴です。ですから、塩土老翁と建甕槌そして経津主神は多くの神社(塩釜系)同時に三柱として同時に祭られているのです。

※これまでの記事はこちらです。

※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。


松永久秀の十束剣



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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
10 févr.
Noté 5 étoiles sur 5.

布都御魂(ふつのみたま)は、記紀神話に現れる霊剣。韴霊剣、布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)とも言う。佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ)とも言う。この表記の内、佐士布都神の「さじ(佐士)」は「さひ(佐比=刀の古語)」の誤記と見られている[1]。名称にある「ふつ」とは、「断ち切る様」をいう[2]

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tootake
19 nov. 2023
Noté 5 étoiles sur 5.

美濃国 土岐郡 天津日神社 是れ一書に孝霊天皇の御代の頃なる由を記せり。

尾張国 海東郡 津島神社 孝霊天皇45年に、建速須左男命(タケハヤスサノオノミコト)の御魂が韓郷の嶋より帰朝。

近江国 野洲郡 御上神社 孝霊天皇の治世期、天之御影神が三上山に降臨した。

近江国 犬上郡 春日神社 孝霊天皇五年亥の年虚空より 鹿来り千々の境内をかけ廻りて死す。

丹後国 熊野郡 三嶋田神社 孝靈天皇の御宇、武諸隅命(海部直の祖)生嶋に大山祇命・ 上津綿津見命・表筒男命を祀りて三嶋神社と稱し奉る。

伯耆国 八橋郡 宮崎神社 孝霊天皇の御代、皇子大日本根子彦国牽尊、土人のために今の 本社地に伊弉諾、伊弉冊尊を奉す。

長門国 美禰郡 八幡磨能峰宮 孝霊天皇の御宇、初めて創立し天照大神、蛭子大神を奉斎。

讃岐国 大内郡 水主神社 創祀は遠く孝霊天皇の御宇。

肥後国 阿蘇郡 阿蘇神社 孝霊天皇の時、御子速瓶玉命に勅して大神を祭られたのが当社創建の始め。

肥後国 蘆北郡 陣内阿蘇神社 孝霊天皇の9年(前281年)現在の阿蘇郡一の宮町に阿蘇神社と して祀られたと伝えられている。

伊予国 温泉郡 出雲崗神社 孝霊天皇の御代の創建。

美作国 東北条郡 寄松神社 孝霊天皇の御代に紀州熊野神社より勧請した。

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tootake
17 nov. 2023
Noté 5 étoiles sur 5.

飛鳥の地では、神武の夢の告げにより、蓑笠姿の翁に扮して香具山の埴を採ってくる。その功により大和国造となる。初代大和神社斎主ナガヲイチは、この人の七世の孫という。


珍彦は技術者

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tootake
17 nov. 2023
Noté 5 étoiles sur 5.

古事記小碓命が九州に入ると、熊襲建の家は三重の軍勢に囲まれて新築祝いの準備が行われていた。小碓命は髪を結い衣装を着て、少女の姿で宴に忍び込み、宴たけなわの頃にまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。誅伐された弟建は死に臨み、「西の国に我ら二人より強い者はおりません。しかし大倭国には我ら二人より強い男がいました」と武勇を嘆賞し、自らを倭男具那(ヤマトヲグナ)と名乗る小碓命に名を譲って倭建(ヤマトタケル)の号を献じた。倭建命は弟健が言い終わると柔らかな瓜を切るように真っ二つに斬り殺した。日本書紀熊襲の首長が川上梟帥〈タケル〉一人とされる点と、台詞が『古事記』のものよりも天皇家に従属的な点を除けば、ほぼ同じ。ヤマトタケルノミコトは日本武尊と表記される。川上梟帥を討伐後、日本武尊は弟彦らを遣わし、その仲間を全て斬らせたため生き残った者はいなかったという。

肥前国風土記

佐嘉郡、小城郡、藤津郡で日本武尊の巡行が記述される。いずれも地名伝承である。小城郡では砦に立て籠もり、天皇の命に従わない土蜘蛛をことごとく誅している。

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