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邪馬台国全史3~建甕槌

更新日:4月15日

第142話


「わしら二人が組めば、」ウマシマジは言った。「彦幸など簡単に討ち取れる。そしたら、ヤマトは俺たちのもんや。」

「お前だけや。わしの気持ちを分かってるんわ」建甕槌は言った。「わしらは、ヤマトで生まれてヤマトで育った。それでもわしらは、よそもんや。戦で手柄を立ててもそれは変わらんかった」


建甕槌(タケミカヅチ)は、長脛彦の子で、ウマシマジは長脛彦の妹の子だった。長脛彦はヤマトの生まれではなく、元々はツクシ(遠くの意味)の出身です。この小説では、長脛彦は三毛入野(大物主)です。※下記 

三毛入野は神武(創作された神武)の兄の一人です。いつも参考にさせてもらっている上垣内先生によると三毛入野は周防(山口県)の周防国熊毛郡の地方豪族です。三毛入野もやはり鉱山の経営者だと思われます。

このプログの75話ではその頃、大阪府南部に侵入してきた五瀬彦と三毛入野は、紀ノ國(木の国)にいたと思われるスサノオ五十猛彦(ニギハヤヒ)と衝突し、追い払われたのではないでしょうかと書きました。この時、五瀬命は戦いで死に、三毛入野は、饒速日に降伏したのです。三毛入野は、饒速日の部下となり長脛彦になったというのが私の推論です。蝦夷には、自分たちと違うもの、よそから来たものという意味もあります。三毛入野は、物部一族からすればよそ者(蝦夷)です。


「おまえかて、タカヒコネ(高日子根)や、ミナカタトミ(南方刀美)から兄弟扱いされてへんかったやないか。」


タカヒコネの父は大国主(大彦)で母はタギリ姫(高津姫)で、ミナカタトミ(タケミナカタ)も大国主(大彦)の子で母は高志沼河姫です。タケミナカワは、武淳川別(タケヌナカワ)と同一人物と思われます。


建甕槌が先日、兵を率いて交野市の倉治へ行き、談判した相手は、タケミナカタとタカヒコネの二人です。ウマシマジも饒速日(孝元天皇)の子ですが、皇位継承からはずされています。


「そら、わしとお前が組めば、彦幸なんかイチコロや。でもそれはできへん。」 「なんでや」ウマシマジは声を荒げて尋ねた。

「彦幸殿だけは、わしのことを重用してくれた。それに彦幸殿はヤマトには必要なお人や。殺したらあかん。」

「ほんなら、長脛彦殿を殺してもええんか。お前の父親やろ」


彦幸はウツシコオのことで孝元天皇(饒速日)の宰相です。


                              続く


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

大物主神(長脛彦)は陶津耳命の娘・活玉依毘売と結婚して、櫛御方命を儲けその櫛御方命(くしみかた)の子が、飯肩巣見命(いひかたすみ)でその子が建甕槌命(たけみかつち)です。

旧事本紀に、媛蹈鞴五十鈴媛命が神武天皇の皇后になったことにより,可美真手命(うましまでのみこと)とともに申食国政大夫(けくにのまつりごともうすうなきみ)となったという。 <建甕槌の別名> 天日方奇日方命:あめひがたくしひがたのみこと 櫛御方命 武日方命:たけひがたのみこと 阿田都久志尼命:あたつくしねのみこと 鴨主命:かもぬしのみこと 久斯比賀多命:くしひかたのみこと


三毛入野は、筑紫から連れてきていた自分の妹を大彦に差し出し降伏した。その娘はツクシから来た兵たちの賄(まかない:食事)を担当していて三炊屋姫と呼ばれていた。三毛入野は褒美に那賀郡(和歌山県紀の川市長田)を与えられ那賀彦となり、さらに背が高かったことから長脛彦(アイヌ語ではイシキリ)と呼ばれるようになった。

出雲の国譲り神話に登場する建甕槌命は、古事記では大物主神の後裔とされ、三輪氏の始祖・意富多々泥古命(オオタタネコ)の父とされています。オオタタネコの別名は豊御毛沼命(とよみけぬ)で、この豊御毛沼命こそ神武天皇の素材であったされるのが、「邪馬台国と神武天皇」の著者の牧尾一彦氏です。邪馬台国前史Ⅵ~石切神社


<関連項目>


※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。。 

※これまでの記事はこちらです。




江戸時代の浮世絵に描かれた建御雷神(岳亭春信『葛飾廿四将』)



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3 comentários

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tootake
09 de nov. de 2023
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神武天皇は即位に先立ち、初代天皇に相応しい正妃を迎えることになった。このとき、ヒムカ国からイワレヒコ(神武天皇)に付き従ってきた家臣である大久米命が、后候補として推挙したのがイスケヨリヒメ(ヒメタタライスズヒメ)だった[11][30]。『古事記』では、大久米命がイスケヨリヒメの出生の逸話について神武天皇に説明し、「神の御子」であるイスケヨリヒメこそ正后に値すると説く[32][30]

『古事記』には、7人の女性が狭井川の岸辺にいるところを神武天皇と大久米命が目撃し、その中から后を選んだという逸話が掲載されている[5]。この際、神武天皇と大久米命、イスケヨリヒメとのあいだで歌を交わすやりとりは、神武天皇の「妻問い説話」としてよく知られている[41][31]


夜麻登能やまとの多加佐士怒袁たかさじぬを那那由久ななゆく袁登賣杼母をとめども多禮袁志摩加牟たれをしまかむの高佐士野(たかさじぬ)を七行く媛女ども誰をしまかむ[31](大意)大和国の川の畔の高台をゆく7人の乙女のうち誰を妻とするか[31]

「高佐士野」は、狭井川沿いの台地を指している[31]。狭井川は三輪山を源とする小川で、大神神社境内ちかくを流れる[42]大和川(初瀬川)に合流する手前では天井川となって川岸が高くなっている[42]

加都賀都母かつがつも伊夜佐岐陀弖流いやさきだてる延袁斯麻加牟えをしまかむかつがつも いや先立てる 兄をしまかむ[31](大意)先頭をいく年長者(イスケヨリヒメ)にしよう[31]

この神武天皇の意を受けて、大久米命はイスケヨリヒメに会いに行く。


この部分には、狭井川の地名の由来に関する注釈がある。この辺りには「山由里草」(ヤマユリ、実際にはササユリのこと)が多く、ヤマユリの異称を「佐韋」というので、この川を「佐韋河(狭井川)」と呼ぶとある[41][42]。現代の狭井川の右岸には「神武天皇聖蹟狭井河顕彰碑」が設置されている[42]

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tootake
09 de nov. de 2023
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ヒメタタライスズヒメの母である玉櫛媛(勢夜陀多良比売)は、ほかに2人の子を産んだとされている。

  • 天日方奇日方 - ヒメタタライスズヒメの兄。『先代旧事本紀』では神武天皇に仕えて「申食国政大夫」(宰相)になったとされる[32]

  • 五十鈴依媛命 - ヒメタタライスズヒメの妹。のちに2代天皇の綏靖天皇の后になったとされる[32][25]

日本書紀』と『古事記』では、説話の細部が異なるものの、ヒメタタライスズヒメは「在地の有力者(神)の娘」を母とし、「神」を父として描かれている[32]。初代天皇である神武天皇が正妻を迎えるにあたり、「神の娘」を娶ることが、神武天皇の政権の正当性を裏打ちするものとして利用されたのだろうと解釈する説がある[32]

母親は、母方が摂津(大阪府)のミシマ(三嶋、三島)、父方がヤマト(奈良県)のミワ(美和、三輪、三輪山)のものとして描かれている。これらは、近畿地方の複数の豪族の協力を示唆しており[注 12]、この結婚は「ヒムカ」(日向国)からやってきた他国者であるイワレヒコ(神武天皇)を、凡河内国(大和国と摂津国)の有力者[注 13]たちが支えたことを示すものだろうと解釈する説がある[32][30]。また、イワレヒコが単に武力制圧するだけでなく、在地の勢力との融和策によって支配基盤を固めようとする政治的方法を示すものだとも解釈する説もある[31]。後述するように、神武天皇の勢力が製鉄技術を確保したことを示すものだとの解釈もある[33]

『日本書紀』で、多少の表現の差異はあるが、母親は三嶋溝杙の娘とされる。「ミゾクヒ」には、溝樴、溝樴耳神、溝杙などの表記がある他、『古事記』では湟咋とあり、溝杭(『新撰姓氏録』)、溝咋などの字が当てられることもある[34][10][11]。「-耳神」を付す史料があることから、神性をもつ存在として信仰の対象であったことも示唆されると見る説がある[34]。この神は陶津耳命や加茂建角身命、八咫烏の名を持っており、賀茂氏の系図では賀茂氏葛城国造の祖神とされている[35]

「三島」という地名は摂津国三島郡(現在の大阪府北部)にあたると考えられている。『延喜式神名帳』(927年成立)には三島鴨神社高槻市三島江)や溝咋神社茨木市)が掲載されており、「ミシマのミゾクヒ」はこのあたりで信仰されていたと推測される[11][34][注 14]

江戸時代の国学者本居宣長は、この「ミゾ(溝)」は水流の上に作られたを指すと解釈し、これが通説となっている[34]三谷栄一などはこの説を採り、厠は出産儀礼とも関連が強いとする説もある[34]肥後和男東京教育大学名誉教授)はこれとは違い、「ミゾ」は水田の溝を意味するとした[34]次田真幸はこの説を発展させ、三島郡は稲作の適地であり「ミシマのミゾクヒ」は農耕神であるとした[34]

母親の名は『日本書紀』では「玉櫛媛(タマクシヒメ)[11]」、『古事記』では「勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)[6][23]」とされている。いずれも、美女として知られていたと伝える[6][23][19][紀 5][記 3]

本居宣長は、セヤ(勢夜)を大和国平群郡勢野村(奈良県生駒郡三郷町)に比定している[23]

『日本書紀』『古事記』のいずれも、ヒメタタライスズヒメの誕生には異類婚が係わっている。父である神は、『日本書紀』では「八尋和邇」、『古事記』では「丹塗りの矢」に姿を変え、女性のもとを訪れている。このようにヒメタタライスズヒメは日本神話における異類婚による子の代表例として知られる[36][注 15]

一方、名に含まれる「タタラ」は製鉄との繋がりを示唆するという解釈があり、神武天皇がヒメタタライスズヒメを嫁としたことは、政権が当時の重要技術である製鉄技術を押さえたことの象徴であるとする説がある[40]。詳細は#たたら製鉄との関連参照。

「イスズ(五十鈴)」は鈴を意味し、たくさんの鈴で手足を飾っているものを指すという説や[30]、金属加工との関連を示唆するものとみるむきもある。これらとは異なり、元の名の「イススキ」が「イスズ」に転訛したと考える説もある[5]

「ヨリ」は「ヨロシ(宜)」とする説や[5]ユリの花に通じ、ヒメタタライスズヒメ(イスケヨリヒメ)の実家である三輪山の麓の狭井川川岸に咲くササユリを指すとの解釈もある[31]

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tootake
05 de nov. de 2023
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