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饒速日の家系

更新日:4月23日

第282話


これまでのブログで孝元天皇=饒速日=大歳(大年神)としてきました。以下はそのつもりで読んでください。


古事記において大年神(おおとしのかみ)は須佐之男命と神大市比売(かむおおいちひめ・大山津見神=大日彦の娘)の間に生まれたとしています。大年神は饒速日です。一方、饒速日の父は天忍穂耳尊または天神、母は 栲幡千千姫(萬幡豊秋津師比売)とされていますが、これまでの検証で、饒速日の父は素戔嗚で母は神大比売=細姫(味舌姫:孝元天皇妃)です。


イチ(市)いうのは真下姫(細媛命)のことです。素戔嗚は大山祇命の娘の神大市比売(カムオオ”イチ”ヒメ)を娶ったと古事記に書いてあります。

・十御縣坐神社(とおちのみあがたにますじんじゃ)は、奈良県橿原市にある神社で、主祭神は豊受大神、配祀は市杵島姫命(いちきしまひめ)。社伝では孝霊天皇記に見える十市県主の祖の大目を祭神としています。大目は大日です。このことにより、大山祇命は大日彦です。

・神大市(イチ)比売は宗像三女神の市寸(イチキ)島比売命です。真舌媛は、宗像三女神! ~三島(茨木市)

・牧尾一彦著「邪馬台国と神武天皇」p462に「和州五郡神社神名帳大略注解所の十市(トイチ)縣主系譜に、十縣主の祖は大日彦(オホヒヒコ)の娘である。」と書いてありました。


孝元天皇(饒速日)の母の真下姫(ました姫)のマシタとは、摂津市にある地名です。〒566-0022。孝元天皇こと饒速日のという名前は、茨木市の新和(にいや〒 567-0855:現在はしんわ)と表記される地区によると思われます。饒速日をローマ字表記にすると NIGIHAYAHI(にぎはやひ)ですが、西日本では濁音が清音に変化するため NIKIHAYAHI(にきはやひ)となり、また発音し難い「は」と末尾の「ひ」が省略され NIKIYA。世界的に Kは Hに転化するため、NIHIYA(にひや) になったとする説があります。


また饒速日が天磐船で天下ったとされる岩船神社は交野市にあり、ここは肩野(かたの)物部の拠点の一つです。近くには高倉下(大国主)の名前の由来となった倉治(くらじ)という地名もあります。〒576-0051


饒速日の母方の祖父は大山祇こと大日彦で大日も大阪府守口市の地名です。〒 570-0003

饒速日は孝元天皇です。一方、孝元天皇の宰相とされるウツシコオ内色許男命)は素戔嗚=ウガヤフキアエズとともに紀ノ國(和歌山県)の名草から、三島にやってきました。


昔・呉勝・韓国より渡り来たり、はじめて紀伊国名草郡大田村にいたり、その後、分かれ来て、移りて摂津国三島加美郡大田村に遷り来る。(播磨風土記)~味舌も大日も三島です。


饒速日はウツシコオの姉、ウツシコメ(萬幡豊秋津師比売=卑弥呼)を娶ります。


孝元天皇の子は、稚日本根子彦大日日尊(開化天皇)、大彦命、少彦男心命、倭迹迹姫命、彦太忍信命、武埴安彦命です。そして饒速日の子は天香具山命(=大国主=高倉下)、宇摩志麻遅命(ウマシマジ)です。


孝元天皇=饒速日が崩御した時点で大和=邪馬台国は大彦=大国主のものになりました。

そして国譲りです。


第278話国譲り再考 ではこう書きました。なぜ記紀の作者たちは国譲りの話を創作したのでしょう。大彦から崇神天皇への政権移行が必ずしも正当なものではなかったということでしょう。アジスキタカヒコネ武渟川別だとするとこんな話を創作する必要はないはずです。武渟川別は大彦の子で大王の資格は十分にあります。とするとアジスキタカヒコネがミマキイリヒコ(崇神天皇)だと考えると一番すっきりするのですが、アジスキタカヒコネは果たして大国主=大彦の子であったのか、そこが疑問です。大王を継ぐ正当性がいまいちはっきりしません。ミマキイリヒコが大彦の子ではなかったのではないでしょうか。記紀では開化天皇の子とさていますが、開化天皇の存在自体が疑問です。信州の諏訪湖に落ち伸びたのは武渟川別です。 279話参照


記紀の最大のトリックは、タケハニヤスの乱ではないかと思い始めました。タケハニヤスは孝元天皇の息子です。タケハニヤスを討った大彦も孝元天皇息子です。タケハニヤスが大彦(大国主)だとしたら、、、(続く予定)




※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。 

※これまでの記事はこちらです。









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