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邪馬台国全史~国譲り

更新日:2023年11月7日

第140話


BC247年、渚姫(名草姫:卑弥呼:ウツシコメ)が死ぬと彦幸ウツシコオ)は本性を現した。


交野市郡津(こうず:高津)倉治にある大彦(高倉下)の屋敷に建御雷神(タケミカヅチ) の軍差し向け取り囲んだ。当時の都は枚方市都ヶ丘(〒 573-1165:旧交野郡禁野)で、交野市の郡津までは、歩いても1時間もかからない距離である。(下図参照)

大彦の養子にさせた菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)をすぐさま即位させるように迫った。大彦は、高倉下~新潟県西蒲原郡弥彦村


大彦は、二度の暗殺未遂で弱っており、南方刀美神(建御名方:タケミナカタ)と味耜高彦根神(アジスキ・タカヒコネ)が交渉に応じた。

                         

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アジスキ・タカヒコネ(高日子根)は、大彦(大国主)と宗像三女神の多紀理毘売命(神屋楯比売:高津姫:こうず姫)同母の妹に高比売命(たかひめのみこと)がいます。古事記で最初から「大御神」と呼ばれているのは、天照大御神と迦毛大御神だけです。

出雲国風土記ではタカヒコネが髭が長く伸びるほどに成長しても,昼夜を分かたず泣いていた(言葉を話さない)と伝えられえおり、タカヒコネには何らかの障害があったと考える研究者もいます。タカヒコネは大彦の長男で大和朝廷の第一後継者です。彦幸(ウツシコオ)はそれを理由に、次期天皇の座をタカヒコネではなく、菟道稚郎子ことミマキイリヒコに譲る理由にしたのかもしれません。

タケミナカタは鴨建角身命と同一人物で大彦の子の武渟川別(タケヌナワカ)です。

地祇本紀では大己貴神(大国主)と高志沼河姫(コシノヌナカワヒメ)の御子神とされています。天神本紀の国譲りの段ではタケミナカタが事代主(タカヒコネ)のことを「兄」と呼んでいます。古事記では、大国主(大彦)は事代主を生む神屋楯比売命より先に沼河比売を娶っており、先代旧事本紀では、大国主神と高津姫神(宗像三女神の多岐都比売命とされる)の子として記述されています。なお海部氏勘注系図には高津姫神は「神屋多底姫」(かむやたてひめ)の別名としており、古事記の大国主神が神屋楯比売命を娶って生んだとする記述と一致します。

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タケミナカタは、高御産巣日神(タカミムスビ=ウツシコオ)によって派遣された建御雷神(タケミカヅチ)が大国主神に葦原中国の国譲りを迫った際、大国主神(大彦)は御子神である事代主神(タカヒコネ)が答えると言った。

事代主神が承諾して隠れると、大国主神は次に建御名方神(タケミナカタ)が答えると言った。タケミナカタは抵抗したものの敗れ、諏訪に追放となる。建御名方は物部守屋~信州諏訪

最後まで抵抗したのが、長脛彦だった。内色許男命(ウツシコオ)最後の陰謀 ~長脛彦の最後

248年ウマシマジは、大伴と久米の兵をつれ、さらに大彦から受け継いだ騎馬隊を用いて長脛彦を日下(クサカ:東大阪市)の石切神社付近で見事に打ち取りました。


魏志倭人伝に「復立卑彌呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與」とあります。「さらに男王を立てる。国中服さず。さらに相誅殺し、当時、千余人を殺す。また、卑弥呼の宗女、壱与、年十三を立てて王と為す。国中遂に定まる。政等は檄を以って、壱与に告諭す。」「新たに男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった。当時千余人が殺された。また、卑弥呼の宗女、壱与(イヨ)、年十三、を立てて王と為し、国中が遂に治まった。」とよ(五十鈴姫)~桜井、豊中

その後、ウマシマジは出雲へ追放されます。ウマシマジの憂鬱

※出雲は地名ではなく、大和朝廷(邪馬台国)の反主流派のことです。

奈良県橿原市に雲梯(うてな)〒634-0834とい地名があります。

そこにある高市御縣坐鴨事代主神社には出雲国造神賀詞という祝詞があります。出雲国造が交替した時、新任の出雲国造が朝廷に参上して述べる寿詞です。

「大穴持命(大国主命)が申すには、皇孫が鎮座するこの国を大倭国といい、自分の和魂を八咫鏡に依りつけて倭大物主櫛厳玉命という名を称して大三輪の神奈備に祀り我が子の阿遅須伎高孫根命の魂を葛城の鴨の神奈備に祀り事代主命の魂を宇奈提(うなて)に祀り皇孫の守護神といたしましょうと申して、杵築宮(出雲大社)に鎮まりました。」


阿遅須伎高孫根命(アジスキ・タカヒコネ)は事代主され、彦幸(ウツシコオ)の大和(邪馬台国)簒奪の事実は、ここに葬り去られたのです。


        次回に続く


<関連項目>


※これまでの記事はこちらです。このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。


交野郡の郡津には役所(衙跡)が置かれていました。


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2 Comments

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tootake
Nov 04, 2023
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家津美御子は三毛入野 家津美御子(けつみみこ)~熊野 (hidemaru3375.com)

さらに神武のもう一人の兄(三毛入野のすぐ上の兄)は稲飯命 (いないのみこと)で食べ物と関係のある名前なのが気になります。

健飯勝(タケイヒカツ) 古事記では飯肩巣見 の子が建甕槌命

建甕槌命の子が豊御気主(オオタタネコ)


この説によると鹿島に祀られている神は元々は多氏が奉斎していた大物主系の建甕槌命で、道祖神的な性格を持った甕の神であったが、中臣氏が「雷」の神として剣神・武神という性格を持たせて、国譲り神話に挿入した[30]。


大物主=長脛彦


大物主神の後裔とされる「建甕槌命」(三輪氏の始祖・意富多々泥古命の父)が建御雷神の原形で、国譲り神話に見られる天津神の「建御雷神」は中臣氏(後の藤原氏)の氏神とされるようになってから成立したものとしている。


丸山二郎(1947年)は建御雷神と経津主神をヤマト王権の発展と拡大に重要な役割を持った物部氏が奉斎していた神々とし、鹿島神宮と香取神宮は朝廷の祭祀を司る中臣氏と関係する以前に物部氏が東国へ進出した際に成立したものとしていた。


いっぽう寺村光晴(1980年)は鹿島神宮がヤマト政権・物部氏との関係の下に成立していた香取神宮とは異なり在地性が強いため、本来は土着豪族の勢力下にあったという説を唱えていた。この説においては、物部氏の没落後に香取神宮とは別に新たな軍事と祭祀の基地が要求された結果、鹿島神宮がヤマト王権の勢力下に入った。


この過程によって『古事記』や『日本書紀』には建御雷神と経津主神が混同されたような形になったという[29]。


大和岩雄(1989年)は、『古事記』において大物主神の後裔とされる「建甕槌命」(三輪氏の始祖・意富多々泥古命の父)が建御雷神の原形で、国譲り神話に見られる天津神の「建御雷神」は中臣氏(後の藤原氏)の氏神とされるようになってから成立したものとしている。


この説によると鹿島に祀られている神は元々は多氏が奉斎していた大物主系の建甕槌命で、道祖神的な性格を持った甕の神であったが、中臣氏が「雷」の神として剣神・武神という性格を持たせて、国譲り神話に挿入した[30]。


宝賀寿男は、『古事記』の建甕槌命は『古事記』や『旧事本紀』に見られるその系図や他氏族との比較から、三輪氏の祖神で意富多々泥古命の曾祖父に位置づけた[31]。


また三輪氏と多氏はそれぞれ海神族と天孫族の出身であるとし、系図、習俗・祭祀体系からもこの二氏は全くの別族であり、建御雷神は最初から中臣氏(山祇族)の氏神であるとする。


この説によると山祇族は火神・陸蛇(竜、オカミ)・雷に縁由があり、紀国造の系譜に見るように、迦具土神を始祖としており、


また中臣氏上祖に「伊都、市」や「速」とあるように、祖系に複数の雷神が見えることから、建御雷神は天児屋命の父・興台産霊命と同一神であり、物部氏が奉斎した剣神たる経津主神(ここでは天目一箇命と比定)と、中臣氏が奉斎した雷神たる武甕槌神とは別の神とする。なお『神道大辞典』には「武甕槌神と経津主神とは同神とする説があるが、なほ別々の二神の名と見る方が妥当であらう」と記載されている。


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長脛彦→   タケミカヅチ → オオタタネコ 

トヨミケヌ(三毛入野)

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